大丈夫な理科系の対談。

第2回 ICOTは出島?



内田 もうひとり私が非常に頼りにしている
ドラえもん君っていうのがいて、
それが今東大の先生になってるんですけれども、
家業がホテル屋さん。
糸井 オーナーの息子。
内田 ええ、で、今は実質のオーナーなんですね。
福嶋 オーナーもやり、東大教授もやりっていう方なんですよ。
しかもピアニスト。
内田さんってなかなか人を誉めないっていうか、
認めない方なんですけども、ちょっと注釈すると、
日本でただ一人認めてるのが
ドラえもんさんっていう方なんですね。
だから、人にドラえもん君レベルを
求めたがるんですよ。
糸井 ミニボスになってるわけですね、つまり、そこでは。
福嶋 きっと乗り移ってるとは思いますね。
いくつかの部分で。
内田 ボスはボスで非常に尊敬してるわけですけどね、
研究者としてなるんなら理想はああいうパターンだと。
本当に万巻の書を読んだ人は
こうなるのだという人ですよね。
だからよくこんな厚い英語の本を枕にして
寝てたんですよ。
起きてるときは必ずそれを読んでるんですよ。
起きて寝るしかないの。
筑波という田舎に、引っ越して研究所ができたときには、
奥さんは子供の教育に熱心だったんで、
ついてきてくんなくて、一人でほったらかされたんで
髭ぼうぼうだし、着てる物も着替えなかったり。
糸井 それでいいわけですよね、本人は。
内田 本人はそれでいいし、
家で何やってるんですかって聞くと、
本読んでるんだよっていって。
厚さ十数センチの本を3日から1週間で
読んじゃうんですよ。
読んじゃうというか、
どこが大事か斜めに読むと分かる。
バーっと斜めに読んで、
これは大したことなかったとか言うわけですね。
福嶋 でも、まあ同じですよね、内田さんも。
内田 僕はちゃんとは読めないもの。
福嶋 いや、早いですよ、すごい。
糸井 僕らが会ったことのないタイプの人の話だから、
まるでスポーツ選手の話を聞いてるみたいですね。
福嶋 この前、古川さん(マイクロソフト会長)も、
ウチダさんのボスの名前を出しただけで、
あ、●●さんっていうふうに
おっしゃってましたけども。
糸井 びびっちゃうんだ。
福嶋 その業界ではやっぱり、
飛びぬけた鬼才(奇才?)というか、
みんなが注目してて。
内田 日本人にあんまりいないタイプだよね。
福嶋 アインシュタイン系。
糸井 今は何歳くらいの人なんですか。
福嶋 今、大体・・・。
退官なさって、慶応の日吉にいて。
内田 来年退官だから65ですね。
糸井 そんなにお年じゃないですね。
内田 第五世代のプロジェクトを始めた時には45歳、
いや、47歳だったですね。
糸井 数学的な発想というか、思想というものは衰えないんですか。
内田 そういう人にとっては、衰えない。
ますます深くなる。
死ぬまで使えるっていうパターンなんですね。
糸井 深くなる。
内田 深くなるしね、広くもなるし。
糸井 深くも広くもなるんですか。
内田 だからね、わかんないときは、
何でも分かる人に聞いたほうがいいでしょ、何でも。
そうすると、非常に能率よく教えてくれる。
糸井 それはボスがですか。
内田 ボスが。
さっきの、北海道から出てきて、
お前は東工大しかいけないよって言われたやつも、
私によい先生でした。
高校時代までは
受験のテクニックを教わったんですよ。
そして本当の学問は独学で。
でも、それがどういう役目を
持つかがわからないで、
ICOTへ来て真価発揮。
例えば微分とか積分とかあったでしょ、
そうすると、計算はできるわけですけど、
何故かというところは教わらない。
アメリカの教育は逆にそこをしっかり教える。
例えば、数学コンテストというのがあると
上位は日本人ですよね。
理科のコンテストも同じ。
だけれど、国民の科学教養度っていうのかな、
ある知識について書かせると、
日本は先進国中最下位の16位なんだって。
本当の理解というのは、
たとえばニュートンさんが考えたことがあるでしょ。
そこには、何で考えたのか、というのと、
それがどう役に立ったのか、という意味があるでしょ。
そのものの存在意義みたいなのが。
そういうのが分かると
始めて解るじゃないですか、ものって。
そこは多分高校の先生は知らないですよね、
ほとんどね。
糸井 考えたこともないかもしれないですよね。
ICOTの研究者は違うでしょう。
内田 日経サイエンスをやってる人で、
「サイエンティフィック・アメリカン」の
日本語版を作った編集担当の方に会ったわけ。
そういう方って第五世代とかに興味持つから。
そうしたらね、日本じゃアメリカの
「サイエンティフィック・アメリカン」の
日本語訳をすごく丁寧にやるわけ。
で、すごくペイがいいんですよ。
ICOTの研究者も
サイエンス好きが多かったですから
その翻訳をひき受けてましたよ。
専門ごとに、あれは専門性が強いですから、地質学とか、
火山が爆発したとか、原子力がとか遺伝子がとかでしょ。
ICOTの中に発注すると必ず適任がいるんで
編集者がうろうろしてるの。便利だから。
ともかく、本当の学問好きが多かったんですね。
糸井 面白い場所ですね。
内田 コンピューターメーカー8社から
人を貰ったんですけれども、
どういう人をくれたかっていうと、
まず有名大学を出て、成績もよくて、
文句のつけようがないけれども、
上司の言う事は聞かず、
つまんない仕事は一切やらない人。
まあ給料分くらいは働いたでしょうけど
勝手なことばっかり言って、結構好きにやってる。
逆に周りにとっちゃ非常に困るわけですよね。
何であいつだけ朝来ないの、とか、
ここ3日間あいつ出てこないじゃないか、とかね。
だけど、有名な先生に頭下げて採ったりしてるし、
本人だってあるときは特別にスーパーマンになるから、
会社としては役に立っちゃうわけですよ。
糸井 時々役に立つ。
内田 日本の会社ってたとえば、8時半なり9時から来て、
5時半まで座ってるのが行儀がいいとかさ、
そういうのって大事じゃないですか。
糸井 農作業には便利。
内田 そういう意味では農耕民族的な特徴を
見事に体現してる。
糸井 見事にそうですね。
内田 そこに対してまるっきりね、守ろうと言うとか、
価値を見出さないような人間っていうのは
邪魔でしょ。
でもまた変なところに放り出すと
大学の先生に怒られるし、
メーカの中でも研究所の中に置いておくしかないじゃない。
で、どこか出せるところないかなと、
本人も喜んで行くところ。
それが第五世代。
非常に面白いらしいと。
すると本人も行きたいっていうんですよ。
そうすると渡りに船ですよ。
行って来い! って。
糸井 じゃあ、ICOTっていうのは
いわゆる出島ですね、
そういう人たちの。
内田 そういう意味じゃ面白かったんですが、
電総研はもっとすごかった。
糸井 えっ?
内田 電子技術総合研究所っていう。
糸井 そういうのがあるんですか。
内田 通産省の下に国立研究所があるんですよ。
これは、明治の始めにできまして、
もっぱら最初は、送電線に白い瀬戸物があるでしょう。
糸井 碍子(がいし)。
内田 あれの研究所というか、
技術導入の研究を始めるために作ったんですよ。
当時は総理大臣直下の組織で。
研究所長は大臣と横並びだったっていう、
由緒ある所だったんだそうです、明治の昔にはね。
それがね、時を経て、だんだん研究職っていうのが、
行政官の下に置かれるようになっちゃったのね。
だから日本ていう国はジェネラルに言うと
研究者とか技術者っていうのが、
ある意味じゃ非常に尊敬されないのね。
職人なんですね。
糸井 “超”職人として。
最初はスタッフで招くんだけども、
次第にラインにしていっちゃうっていうことですよね。
内田 超職人ですけれどもね、
江戸時代における職人っていうのは、
例えばその人の名は出なくて、
その人の作ったものだけが残るっていうことでしょ。
日本は研究者をそういうような形で
今日においても捉えてるんですよ。
だからステイタスが決して高くないでしょ。
だからそのノーベル賞の人も
ある意味じゃ途中までは職人なんだけど、
ノーベル賞という外国人が貼ったレッテルで初めて、
ちょっと特別な地位に上がるという。
糸井 ノーベル賞くらい貰わないと
逆に駄目だとも言えるわけですよね。
内田 そうですね。
日本にも優秀な人材はいるのに、
その才能を発揮する場を準備してあげないんですよね。
だから、職人扱いをやめて才能を認めたら
どんどんお金をつぎこんでやれば
ノーベル賞をとる人ももっと増える。
しかし、日本ではノーベル賞というレッテルが先に要る。
糸井 それ以下のレッテルではいけないわけですね。
内田 今は職人の親分ぐらいのレッテルですかね。
そうするとやっぱり事務官僚は、お役人様と呼ばれて、
弁護士とか検事は先生と呼ばれてそっちの方が偉い、と。
そうですよね。
職人ってあの長屋の中でこうやって、
左甚五郎だって、名前残ってるけどただの職人で
やっぱり殿様とか行政の勘定奉行とかよりは、
はるかに下。
糸井 昔だと工業製品作ってるから、
職人ということで非常に判り易かったけれども、
今はもっと見えないものを扱いますよね。
その概念であるとか、その電子的なロジックみたいな。
ああいうものを扱うようになると
どこが職人なのかとか、
どこがアートなのかみたいな
区別がつかなくなりますね。
今はもうそういう時代に
本当に入ってるわけですね。
内田 昔は、アートの部分は海外で、
図面になってから、製造になってからが
本当に職人さん、日本人の出番だった。
今はだんだんそうじゃなくなってきたでしょう?
だから日本の中でもアートが、
エンジニアリングにおけるアートの部分っていうのが
大事になったし、
そういうのがどんどんどんどん育ってきたんだけども、
社会における認識というのは相変わらず
昔のままなんですよね。
画家だったらね、好きなときにしか
絵を描かないって言ったって、
誰だって、当たり前でしょうと言うんだけれども、
研究者って、工場の工員さんと同じ生活、
同じナッパ服着てないと駄目とか、
そういうことでありますから、
だんだんとそこからはみ出てくる人間は
絶えられない。
はみ出し人間をもっとうまく生かしていかないと
日本発の技術なんて出ないし。
たまたま第五世代のプロジェクトみたいなのを
ぶち上げて、そういうようなところができたから、
やっぱり自分がそこでハッピーになれるという
直感が働きますし、実際そうなったわけですから。
IT革命なんてのも、第五世代みたいなプロジェクトが
次々できていたら日本がリードしていたかも。
糸井 出島に・・・。
内田 さっき言った電子技術総合研究所も
昔っからそういうところだったの。
碍子やるときだって昔は先端だったわけです。
それがだんだんだんだん、
例えばコンピューターの時代になる以前、
日本に近代科学が本格的に入ってきたあたりから、
第一次大戦より後はオリジナルな研究が
いっぱい出てきたわけですね。
そうなるとアートの世界ですから。
それに一番お金もありましたし、
欧米で開発されたあの機械の最初の輸入先は、
ここだとかね。
やっぱり一番いいものを
一番いい環境を与えなきゃ
それよりいいアイディアは出ないし、
だからだんだんアートの世界を
担当する人が集まってきたわけで。
それはコンピューターだけじゃなくて
エネルギーとかね、宇宙の技術だとか、
発電、変な発電とか……そういうのがいっぱいいて。
例えば超伝導物質なんてのやるわけですよね。
電気抵抗を下げていくとゼロになっちゃう。
だからそれに電気をぐるぐる回していくと
電池の変わりになるとかね。
そういう研究をしている人とか……
まあ、ある意味じゃあの何ていうんですか、
はみ出し人間、紙一重を超えそうで超えない人間の
集まりなんですけれど。
でも、超えちゃうのもたまにでるんですよ。
2年に1度か1年に1度。

2000-07-16-SUN

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