坊さん。
57番札所24歳住職7転8起の日々。

第220回
仏教の心の場所―ダライ・ラマとの宮島―


ほぼにちは。
四国の坊さん、ミッセイです。

早起きして
広島市内から宮島に向かい
チベット仏教の法王ダライラマの
法話・儀式を受けるのも日も二日目になりました。

「なんで、宮島とか対岸の、
 宮島口に泊まらないの?」

という指摘、
ごもっともなのですが、
今回のダライラマの訪問で、
ほとんど全てのホテル・旅館は完全にパンク状態。

電話で予約しようとしても、

「その日あたりは、
 ダライラマさんが来るから、
 全然、ムリ、ムリ!」

と旅館のおばちゃんに鼻で笑われるぐらい、
宮島がダライラマ一色なのです。

でも、
一時間ぐらいかけて、
電車、フェリーで移動するのは、僕にはよかったです。

「今日の話、僕には少し出来ない部分があるな。」

とか、

「栄福寺でできる仏教の仕事って・・・。」

とぼーっと考えたりしました。

まぁ、もちろん、

「今日、何食べようかな・・・。
 うどん、おにぎり、おでん、
 うーん、生き物が食べられないと選択肢が少ない!」

てなことも考えたりもしてるのですが。
そう、二日目から、正式な儀式になるので、
食事が精進なのです。
(各自で生き物を食べないようにします。)


会場の宮島は、
本当に神社やお寺が多くて、
美しい五重塔や、



おなじみ、
海に浮かんだ厳島神社など、
まさに神の島という雰囲気です。



島にはお墓がなくて、
島に住んでいる人も、
お墓は対岸の場所に造るそうです。

こちらも有名な存在、
鹿の皆さんも元気にまったりと生活をされていました。



お釈迦さんが5人の弟子に初めて説法をされた
鹿野園(ろくやおん)も名前からして、
鹿と縁が深い場所でしょうし、
ダライラマも鹿の姿に喜んだかもしれません。

今日は、
今回の儀式のメインとなる、
日本で初めての
チベット仏教、
両界曼荼羅の灌頂(かんじょう)の儀式に、
先だって、
「前行法話会」が行われました。

ただ単に、
ダライラマが単独でお話されるのでなく、
14世紀頃のチベットのツォンカパというお坊さんが
著した「道の三要訣」という書物を
解説しながらの法話になります。

そして、
ダライラマを招聘した大聖院さんのご住職が、

「栄福寺さん、前に来てください。」

と案内してくださり、
一番前のダライラマの正面に、
座らさせていただきました。
本当の目の前に法王猊下がいるのです。

「こんなものすごい場所、辞退すべきかな・・・。」

とも考えたのですが、
若いから伝えられることもありますし、
何かのご縁と思って、
そのまま座らせて頂きました。

「まさか、
 自分の人生にこんな日があるなんて・・・。」

そんな風に思いました。
そして、
ヒマラヤを越えて、
ダライラマに会いに行こうとして、
雪山に倒れた多くのお坊さん達に、

「今日は一緒にお話をお聴きしましょう。」

と心の中で話しかけました。

法話は難しく複雑な内容も含まれるのですが、
ダライラマの話は時にとてもシンプルです。

例えば、
仏教の目的地点を話の中で、
すごくシンプルに語られました。

その場所は、

「こころが静まった状態」

なんです。

だから、
修行の善し悪し、
仏教の勉強の善し悪しはすぐに見分け、
判断することができる、そう説かれるのです。

「もし心がだんだんと
 落ち着いて平安になっているのであれば
 それはいい修行です。

こころが荒れた状態であれば、
うまくいってないということです。」

本当にそうだなぁ、
その大前提を忘れることも、
少なくないよなぁ、と思いました。

そして、
何故、それをするのか。

「心の静まった状態が幸福という状態であり、
 生きとし生けるもので、
 苦を求め幸福を求めないものはいないからです。」

そうシンプルに話を展開され、
緻密なそれに至る方法論について、
話を進められます。

僕はこの「幸福」って、
意外ととらえ所がないので、
「おもしろい」とも言えないかな、
と話を聴きながら思っていました。

「おもしろい」と思っている、
心の中って意外と「平安」のような気がしませんか?

でも、
やっぱりちょっと違うみたいです。

綺麗な海をみたり、
夕日の空、
美しい女性を観て(煩悩?)

「おもしろいなぁ」

とは思わないですもんね。
仏教の「幸福」って、
「おもしろい」よりも、

「いい気分」とか、
「なんか落ち着くなぁ。」
「ご機嫌」に近い感覚なのかもしれませんね。

でもそれが古典的な仏教だったとしたら、
「おもしろい」も仏教に欲しいな。

今回の法話は、
なにせダライラマが一日中、
目の前でお話しされているのだから、
どこを切っても皆さんに
お話したいと思ってしまうんですが、

その中でも、
意識をどこまでも、
分析的に解析しようとする、
仏教の論理的な部分には、

「そこまで考えるか。」

と思いました。

仏教は、
論理的であることを、
とても大切にし、
そのことをダライラマは、

「おいしい食べ物を食べたい時に、 
 おいしい食べ物が食べられますように。
 と願い事をするだけでは食べられませんよね。
 塩がどのぐらい必要だとか、
 水の分量だとか方法論が必要なんです。」
(そうでしょう?といたずらっぽく笑う。)

と話されました。

そして、
おそらくとても大事なことなのですが、

「心」を
「粗い心」と「微細な心」に分けて捉えられていて、

仏教では、
なんとかして、
その微細な心に触れなければいけない、
という話をされました。

粗い心は死によってなくなるけれど、
その微細な心はずっとずっと、
続いていくということです。

始まりなき遠きより、
続いていくという光の心がどういうものか、
僕も思いを馳せました。

また、
知性によって獲得された知識を、
知っているだけで、
どかっと座っているだけではいけない。
実践していこう。
法衣を付けているのが僧侶ではない。
お堂を建てるのが仏教ではない。

という言葉にドキッとさせられました。

そして、
これでもか、これでもか、と、
あらゆる例え話、論理的な考察を使って、
今日も繰り返し「空」(くう)について話されます。

「構成要素が私ではないが、
 構成要素以外に私はいない。」

「原因と結果によって(縁起によって)
 生じるものはすべて空である。」
 (それだけで自立しているわけでないから。)

「複雑な話で、難しいけれど、
 なんとしてもこの“空”の
 感覚をつかんで欲しい、
 心に馴染ませて欲しい。
 そこから菩提心、
 やさしいこころが生まれ、
 すべての土台になるのだから。」

どうやらダライラマ(チベット仏教)は、
空を説いた
仏教の大哲学者「ナーガールジュナ」(龍樹)への、
信頼と愛情がとてつもなく深いようです。

「わからなくても、
 ナーガールジュナの『中論』を、
 ゆっくり、ゆっくり、
 何度も何度も読んでください。」

僕も広島で文庫版の中論を買って、
手元に置いています。
(中村元さんの『龍樹』という本に、
 中論の訳が付いています。)

「心の本質は、
 とてもニュートラルなものです。
 ですからよくも悪くもなり得ます。
 そして、体と違って、
 限界というものがありません。

 商売人が商売をすることだって、
 とてもニュートラルなことですよ。」

時には心理学、量子論の話も飛び出しながら、
実際の生活者を忘れない。
そんな仏教の話に、
興奮したり頭を抱えたりしながら、
朝から夕方まで続いた、
ダライラマの法話は、
また明日の儀式へと続きます。

玉座へ向かう途中、
前に座った僕を観て、
手をさしのべてくださった、
ダライラマの柔らかい手を、
僕は何度も思い出すんだろうなぁ。


ミッセイ


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2006-11-19-SUN
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