坊さん。
57番札所24歳住職7転8起の日々。

第184回 うみと遺影がくれる感覚

ほぼにちは。

ミッセイです。

すこし遅めの、

「あけまして、おめでとう。」

になりました。

年末は、
いつものように、
法事があたっている人を
過去帳から抜き出したり、

新年はそれを、
檀家の人に連絡して、
各家の仏壇に新年の祈願をするために、
挨拶回りに行ったりしていました。

端的に言って、
坊さんに正月休みはありません!
(栄福寺に除夜の鐘を突きにくれた人達、
 ありがとう。)

今年は、
昭和20年に亡くなった人の
六十一回忌に当たります。
(地方によっては六十一回忌の法事を、
 しない所も多いと思います。)

栄福寺のように、
田舎にある寺にも、

「戦死」

と記載された方の名前が、
いくつか、ありました。

過去帳という、

「死んでいった人」

の名前を何千も繰っていると、

「あー、僕も間違いなく死ぬんだなぁ。」

という思いを、
いつも、いつも、感じます。

そして、たぶん、
途中で死ぬみたいだよ、みんな。

そして、それは、
すごく、あたりまえのこと。

***

たぶん、
多くの人にとって、

「わからない」

ということは、
なにかしらの、
不安や恐怖を引き起こすものだと思います。

だからこそ、
そこから逃れたいと感じる、
僕達は、

「知ろう」

とするような気がします。
(他の理由もたくさんあるけれど。)

でも、

「死」

というのは、
今のところ、

「まるっきり、
 わからないもの。」

なので、
(少なくても、
 僕にとっては、そうです。)

寝る前とかに、
大人になった今でも、

「死ぬと、
 どーなるのかな?

 死ぬの怖いな。」

とたまに思います。

一度どこかで、

「人間は、
 動物の中で唯一、
 自分が死ぬ事を知っている。

 そして、その時点で、
 深く病んでいる。」

みたいな言葉を読んだような、
記憶があるけれど、

まぁ、死ぐらいは、
不思議なままでも、
いいような気が、
ちょっとするね。

でも、時々こわいです。

もしかしたら、
そんな心に対して、

「高性能の効果を持った普遍的で“生きている”物語」

を語れたのが、
宗教の始まりのひとつなのかもしれないね。


そして、
実はというと、

僕はそんな、

「なんとなく死ぬのが、こわい感覚」

が、
ふっと晴れ渡るような気分に
なるような種類の時間を、
ふたつ持っています。

ひとつは、

檀家さんの家を廻っていて、
死んだ人の、
遺影を見る時にそう感じることが、
よくあるんです。

今、思い出してみると、
二人ぐらいの遺影が思い浮かびます。

ひとり目は、
丸い顔をした、
漫画に出てくる落語家のような表情で、
ニヤーっと笑っている、
セピア色のおじいさん。
着物を着ています。

思わず、

「あんた、なにが、そんなに可笑しいのよ!」

と吹き出しながら、
声をかけてしまいそうな、
表情をしています。

もうひとりは、
若い時の南方熊楠(みなかたくまぐす)のような、
キリッとした男前の、
青年の男の人。

この人も、
白黒の写真で着物姿です。

写真を撮られることに、
すこし緊張を隠せないのだけど、
凛とした心を感じさせる、
凛とした表情をしています。

若い頃に亡くなったんでしょうね。

仏壇の上の方にポツリと飾られた
彼らの遺影を見る時、

僕は、うまく言えない、
ちょっと特別な気分になります。

そして、

「死ぬということは、
 そんなに、
 悪い事じゃないのかもしれないな。」

そんな気分に、
ちょっとなったりするんです。

不思議だけど、
結構、いい気分なんですよ。


もうひとつは、

「夕方の海」

を見る時です。

これも、
本当に不思議な気分になります。

そして、
ふっと、

いろいろなタイプの恐怖みたいなものから、
やんわり放たれるような感覚があるんです。

これって、
どんなことなのか、
考えること自体、
すこし野暮な気もしますが、

なにか、

「自分という独立した個人が、
 見たいもの。」

というよりは、

「自分の中の

“伝えられたなにか”

 が、見たがっている光景。」

のような気が、
漠然とするんです。

そして、これは、
直感で、予感ですが、
僕は「仏教」にも、
そんな雰囲気を感じることがあるんです。

伝えられたものとしての、
自分のある部分が見たがっている光景。

それは、例えば、
僕の父親とかおばあちゃんとか、
昔々の先祖とか、
血の繋がっている人達が見たがっている、
というよりは、
例えば、

「海が見たがっている光景」

のようなものの気がするんです。
なんなんだろうねぇ、この感覚。

僕にもよく、わかりません。

そういうものって、
他にもなにか、
あるのかな。

たぶん、あるんだろうね。


宗教や仏教には、

「死」や「死期の世界」

そして、

「生きること」

に関した、
たくさんの世界観があるけれども、

僕の心が今、感じるような、

遺影にこころ震え、ゆるむ気持ち、

夕方の海に許される感覚。

そういったものを、
ここにしっかり、
留めておきたいなって、思います。

それって、
生きることにとって、
本当に特別な感覚だって、
僕は思うよ。

そして、僕はそれがすごく好きです。


ミッセイ

お知らせ。
四国88カ所のお寺が88枚の切手になります。
原画の撮影は「坊さん」の文章の中でも、
何度か登場した三好和義さんです。

栄福寺は11月5日発売の第一集、
20ヶ寺の中に収録されます。
(紅葉が綺麗な秋の風景)

全国の郵便局でも、
通信販売の申し込みが出来るようですよ。

詳しくは、こちらまで。
シンメディアという出版社刊行の
『季刊 巡礼マガジン』
というシブイ名前の雑誌で、
「おもいだす空海」という連載を、
最新号の31号から始めました。
(ほぼ日を読んだ編集者の方から、
 お話を頂きました。)

空海の著作の言葉に、
僕が短いコメントと、
写真を添えるという、
見開き2ページでの連載です。

手に取られる機会があれば、
ちらっと覗いてみてください。


このページへの激励や感想などは、
メールの表題に「ミッセイさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2005-01-18-TUE

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