坊さん。
57番札所24歳住職7転8起の日々。

第182回 恥をそろえる。

ほぼにちは。

ミッセイです。

今年は台風の影響か、
秋のお遍路さんの多い時期が、
すこし後ろにずれ込んだようで、

気温がだいぶ下がってからも、
たくさんのお遍路さんが、
お参りされることが、多いようです。



団体のお遍路さんには、
大概「先達さん」という、
お遍路さんに、
お参りの方法なんかを、
指導してくださる方が、
同行しています。

この団体さんに付いていた、
先達さんが、

あらん限りの力を込めて、
でっかい音で、
鐘楼(しょうろう、かねつき堂です。)
のかねを叩いているお遍路さんに、

「鐘は叩くんじゃなくて、
 鳴らすのよ。」

と声をかけていて、
お堂の渡り廊下の雑巾がけをしていた僕は、
それを聞いて、

「おっ、それってコミュニケーション論じゃないか!」

とひとり感動しておりました。

みんなから見えない所で、
掃除をしていたら、
いろんな事が聞こえてきて楽しいです。

(境内をはいているお手伝いのおばさん)
「あれ、ここ、もう、はいてあるのかな?」

「うん、ミッセイさんが掃いたみたいよ。」

「じゃあ、はいてたら、怒られるねー。止めとこう。」

(廊下から頭を出したミッセイ)
「あのー、ざっとしか掃いてないので、
 掃いておいてください。」

「あれー?ミッセイさん、おられたの?
 オホホホホホホホ。」

***

「お釈迦さんと空海さんって、
 どんな風に違うの?」

ってことをたまに聞かれます。

これって、そのまま、

「密教ってなんなの?」

って質問でもあると思うんですが、
大前提として、
空海さんの書いたものを読んだりしていると、

何度も自分のことを、
釈尊の弟子であるって、
書かれているので、
その大前提は、大切であると思っています。

でも、
密教の大きな特徴として、
僕は、

「不条理を抱える」

って部分が、
小さくないって、
考えているんです。

釈尊は、
いろんな事の
整合性を注意深く、
あわせながら、
パズルを解くように、
人間が特定のルールを設定することで、
より気持ちよく生きていけるって、
考えた方だという印象を、
僕は持っているんですが、

「不条理もある。」

って、考えるのが、
密教のアイデアじゃないかな。

「不条理ギャグ」

って、ありますよね。
なんだか、わかんないけれど、笑える。

説明つかないんだけど、
声が出る。

それと似た感じで、
(なんて言うと問題あるのかな。
 個人的にはないと思うけれど、感覚です。)

うまく説明できない、
ホーリーな(聖なる)感覚。

突如として起こる、
圧倒的な怒り。
(密教の仏さんは憤怒“ふんぬ”の像、
 と言って、怒っているものも、少なくないんです。)

わき上がる悲しみ、

世界を包むような、
思考停止にも似た歓喜。

そういう、

「説明つかないんだけど。」

みたいな感覚が、
密教には溢れている予感が僕にはあって、

「いいなぁ。」

と僕は思っています。


「わけのわかんない」

に触れるための

「システムとしての方法論」

を作ろうとした、
試み、とも言えると思います。


空海さんと最澄さんが、
仲違いしたのは、

「理趣経釈」という空海さんの、
持っていた書物を、
最澄さんが、

「貸してください。」

と手紙を書いたことに対して、

密教の重要経典である理趣経は、
言葉だけでつかもうとすると、
わからないのだから。

と空海さんが断ったことから始まる、
というエピソードが、
有名ですが、

そういう部分が密教には、
あるみたいです。

***

僕は、仏教とか密教が、
“役に立つ”
いろんな角度から語れたらなぁ、
という思いがあって、

よくノートに、

「セクシーな仏教」

とか、

「空海、ポジションチェンジの技法」

とかわけのわからない事を書いているのですが、
そういう、

「役に立つ」

という意味で、
絶対、
仏教とか密教で考えたら、おもしろいだろうなぁ、
と思っているのが、

「コミュニケーション」

です。

多くの人が考えたり、
悩んだりする事、
夢を持つ事って、

コミュニケーションに関することが、
とても、多いですよね。
僕は、そうです。

「あのおっさんと、うまくいかない、」

「この絵で、誰かと繋がってみたい。」

「この音で、自分のどこかを触れていたい。」

「自分のことがよくわからない。」

「大日如来に会ってみたい」

そういうコミュニケーションに関する話を、
仏教や密教でできたら、
絶対、おもしろいだろうなぁ、と思うんです。

そこで、
僕が、僕のコミュニケーション技法として、
最近、試みようとしているのが、

まさに、

「わけのわかんないもの(不条理)の交換」

とか、

「わけのわかんない(不条理)の提示」

なんです。

方程式を解くように、
「正しい」
事だけを求めるのでなくて、

自分の中で、

「説明のつかない」

「わけわかんない」

を、少しでも発見したら、
それを、なんとか、
交換できないか、
提示することができないか、
方法を考えてみる。

得意分野ではないので、
残念ですが、
恋愛なんかでも、

「この人のことを、
 圧倒的な偏見に満ちて、
 好きだ。
 
 この人だけの領域を、浸食したい。」

みたいな感覚って、
けっこう大事そうな気がします。
(それって瞬間を、
 作り出すものかもしれないけど。
 瞬間って大事だよね。
 生きている時間は瞬間でもあるかもね。)

考えてみると、
父親や母親が、
ありがたくって危険な部分は、
圧倒的偏見に満ちて、
まとまった時間、
自分のことを愛してくれる所ですね。

まぁ、だからこそ、
釈尊は、
仏弟子の生殖を禁じたんだろうなぁ。

僕の考えでは、
釈尊は性欲の否定よりも、
家族を持つことでの、
圧倒的偏見の不自由さに注目したんだと考えています。
(なかなか、むずかしいなー。)

***

コミュニケーションの話に戻るのですが、
僕の中では、

「わけわかんないの交換と提示」

から、派生して出てきたアイデアなのですが、

コミュニケーションだけではなくて、
たぶんいろんな意味での、

「成長」や「抜け」にも関する事だと思うのですが、

方法論として、

「恥を揃える」

というのは、
かなり、手っ取り早いアイデアだと思って、
試し始めています。

「不条理の交換」

なんて、言われても、
なかなか、

「今から実行っ!」

とは、いかないと思うんですが、
「恥」は、なかなか、手っ取り早いんです。

僕はすごく、恥ずかしがり屋です。
そんなこと言うと、
吹き出したりする人も、
多いのかもしれないけれど、
かなりシャイな成分を持っています。
自意識過剰とも言います。

そして、

「恥」

に対して、
繊細に感じてしまうタイプだと思います。

もちろん、
すべてこれを、
反転させてしまうことは、
不可能だし、

そんなことする必要ないのですが、
(それって危ない。)

いろんな場面で、
意識的に、

「全力を尽くした恥」

をかこうと思うんです。

「あっ、その恥、オレがもらうわ。」

みたいな。

これは、たぶん、すごくいいよ。

「自分のことを嫌いかもしれない、
 自分の好きな人に対してこちらから、
 こんにちは、と言う。」

「いつもは買わない、服を買う。」

「農道を全力疾走する。」

「バッティグセンターで、
 左打席に3回連続で入って、
 全部空振りする。」

なんでも、いいと思うんだよ。

そして、

「やっちまった恥」

よりも、

「よし、また恥を揃えました!」

という恥は、
精神的な部分で、
だいぶ、違うような気がするんです。

そして大概のものは、
心で、
できているって考えます。

***

空海さんの話から、
だいぶ、話が卑近になった気もするけれど、
僕にとっては大事な話。

自分なりの偏見に満ちて、
自分や誰かのために、

仏教や密教から派生したアイデアが、
ライフスタイルとして役に立ったら、
おもしろいだろうなぁ。

まぁ、ちょっと、
「恥」やってみます。


ミッセイ

お知らせ。
四国88カ所のお寺が88枚の切手になります。
原画の撮影は「坊さん」の文章の中でも、
何度か登場した三好和義さんです。

栄福寺は11月5日発売の第一集、
20ヶ寺の中に収録されます。
(紅葉が綺麗な秋の風景)

全国の郵便局でも、
通信販売の申し込みが出来るようですよ。

詳しくは、こちらまで。
シンメディアという出版社刊行の
『季刊 巡礼マガジン』
というシブイ名前の雑誌で、
「おもいだす空海」という連載を、
最新号の31号から始めました。
(ほぼ日を読んだ編集者の方から、
 お話を頂きました。)

空海の著作の言葉に、
僕が短いコメントと、
写真を添えるという、
見開き2ページでの連載です。

手に取られる機会があれば、
ちらっと覗いてみてください。


このページへの激励や感想などは、
メールの表題に「ミッセイさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2004-12-07-TUE

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