坊さん。
57番札所24歳住職7転8起の日々。

第175回 もうひとつを、いくつも、みつける。

ほぼにちは。

ミッセイです。

久しぶりに高野山に行ってきました。

中国で空海が移動した道のりを巡礼してきた、
お坊さん達を迎える、
儀式のお手伝いをしてきたのですが、

高野山はもう、
少し紅葉していて、
すごく気持ちよかったです。

雰囲気もやっぱり、
空気が、ぴしんとしていて、

「いいなぁ」

と思いました。
4年間住んでいた時は、

「寒い、あまりにも寒い。」

と呪文のように唱えていて、
正直、自分の住んでいる場所に、
あまり愛着を、
感じなかったような気がするのですが、
(なにせ、暖かい四国育ちなので。)

今となっては、
本山が高野山にあって、
たまに訪れる機会があることが、
すごくうれしいことだなぁ、と思います。

まったくなにもない所に、
空海さんというひとりの個人が、
まっさらからコンセプトをたてて、
夢を見た場所なので、

そういう意味でも、
なんか静かにドキドキする場所です。

僕のおすすめビューポイントは、
山に登る南海電車の、
一番前に陣取って広い視野を確保して、
山を見ながら、

ぼーっとすることです。

***

最近気づいたのですが、
僕は、結構、仕事関係の人(坊さん)から、

「腹の底が見えない時がある。」

という意味のことを言われることが、
たまにあることが判明しました。

「ミッセイ君は、
 結構、ガード高いからなぁ!

 今日は、本音でいこう。

 まぁ、ビールのグラスあけようよ。」

みたいな感じで言われるのですが、
まぁ、言われた当人としては、

「そうかなぁ、そうかもなぁ。」

と興味深く、
帰りの電車の中で考えていました。

僕が、そういう傾向があるのは、
いろんな理由があるのだろうけれど、

僕なりに考えてみると、

「自分の持っている、
 残酷さとか、冷酷さとか、
 ずる賢さとか、戦闘的な部分に、
 かなり自覚的だから。」

では、ないかなぁ。

と思います。

正直に言って、
そういう感情の総量は、
よっぽど特殊な人を除いたら、
ほとんどの人が同じなんじゃないかと思います。

実際に表に出るかどうかは、別にして。

僕もごく一般的な普通の量を
持っていると感じています。

ただ、僕は、
それに対して、

「すごく、自覚的」

のような気がするのです。
いいことでも、
悪いことでもない気がするのですが、

ただ、そこにあるのが、
本当によく、わかるのです。

だから、

「あまり、おおっぴらにしたら、
 まずいかも。」

みたいな感情が自然に発生して、
ちょっと、ガードが高くて、
他人行儀な印象を与える場合があるのかなぁ、
と思いました。

その分、
正直な感情を出せる時を、
見つけると、
堰を切ったように、
どばーっと出るんですけれど。

この「ほぼ日」の文章も、
僕にとってまさにそういう場所です。

今はそういう場所を、
あまり多く持っていません。

考えてみると、
たぶんお釈迦さんという人は、
そういう、

「残酷さとか、冷酷さとか、
 ずる賢さ、戦闘的な心」

を徹底的に排除しようとした人です。

これは、
結構、不思議なアイデアですよね。

ある意味人間の、
動物としての部分の、
かなり多くを否定することですから。

宗教者の性的な行為も否定したのだから、
人間が人間であることさえも、
一見、否定しているような印象さえ、
受けるかもしれません。

どうして、こんなこと、考えたんだろうね。

僕が、考えるには、
お釈迦さんは、
すごく個人的な傾向も
強く持っているけれど、

同時に、生きることは、
社会全体の「チームプレイ」であると、
捉えていた気がするんです。

よく言われるように、
人間全員が、
敬虔なお坊さんになって、
子孫を作らなくなったら、
人間は、滅びますよね。

でも、お釈迦さんは、

「役割分担」

というか、
サッカーのポジションみたいな感じで、

「おれは、ここ担当するわ。」

みたいな人達が、
何人かいたほうが、
いいんじゃないかな?

って考えたと思うんです。
勝手な予感ですけれど。

そして、
その“仏教ポジション”の担当者は、
なにを知ろうとして、
なにを見ようとしたんだろうね。

それを、ひと言で言うと、

「世界を正確に見ようとした。」

じゃないかと思うんです。

それは、とても科学的な態度であると思います。

僕が世界的な科学者の講演を聴いた時、
こんなことを言ってたっけ。

「科学において、
 なによりも大切な、
 すべての土台となる態度は、

 自分という存在を完全に消して、
 純粋な観察者となることです。

 これが一番難しくて、一番重要なんです。」

仏教者が、人間であることの、
かなりの部分を消して、
世界を見ようとしたことが、
なにかとても、合理的な印象を受けます。

そして、
伝えられた仏教の智慧の中には、
やはりとても、大切ななにかが、
含まれているという、
予感を感じます。

でも、僕は、
「自分を消した」
仏教者が見ていた風景が、
いわゆる、

「本当の」

世界の風景だとは考えません。

欲望を持った僕達が、
赤く見えるバラが、

欲望を消しとった途端、
青色に見えたとしても、

それが、

「本当は」

青色であるかというと、
そうではないと思います。

科学的な態度ではありませんが。

それはたぶん、
両方、本当なんだと僕は思うんです。

赤は、青である可能性を持ちながら、
赤の姿を見せている。

青は、赤でもあるという、
事実を含んで、
青としてあらわれている。

ですから、
宗教に担える仕事があるとしたら、
その大きなひとつは、

いろんなことの、

「いろんな可能性を示すこと」

なんじゃないかな?

あらわれた現実意外にも、
「ほかの可能性」が、いくつもあること。

そんな考えを
シェアすることなんじゃないかなと、
考えたりします。

つまり、

「それもあるけど、これもあるよなぁ。」

ってメッセージソングを歌うことなんじゃないかな。

そして、
欲望や動物としての本能を、
抱えたながらも、

提示する事のできる、
オルタナティブな(もうひとつの)
世界や人の姿というのが、
たぶんあるんじゃないかと、
僕は思います。

そして、それは、
自分が自分として、

僕が僕として、

「ひとりで考えること」

から始まるような気がしています。

そこには、
必ず小さな、

「もうひとつ」

が発生するはずだから。


僕として、僕の考えを持つこと。

それが僕にとっての、
最高の宗教的態度です。


ミッセイ

 
お知らせ。
四国88カ所のお寺が88枚の切手になります。
原画の撮影は「坊さん」の文章の中でも、
何度か登場した三好和義さんです。

栄福寺は11月5日発売の第一集、
20ヶ寺の中に収録されます。
(紅葉が綺麗な秋の風景)

全国の郵便局でも、
通信販売の申し込みが出来るようですよ。

詳しくは、こちらまで。
シンメディアという出版社刊行の
『季刊 巡礼マガジン』
というシブイ名前の雑誌で、
「おもいだす空海」という連載を、
最新号の31号から始めました。
(ほぼ日を読んだ編集者の方から、
 お話を頂きました。)

空海の著作の言葉に、
僕が短いコメントと、
写真を添えるという、
見開き2ページでの連載です。

手に取られる機会があれば、
ちらっと覗いてみてください。


このページへの激励や感想などは、
メールの表題に「ミッセイさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2004-10-31-SUN

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