坊さん。
57番札所24歳住職7転8起の日々。

第154回 光に顔をむける。

ほぼにちは。

ミッセイです。

突然ですが、
僕は男前ではないので、
普段、鏡をみて、
自分の顔にウットリすることはありません。

ただ、僕の家には、ひとつだけ、

「(僕にしては)なかなか、
 悪くない顔にうつってるなぁ。」

と、ほぼ例外なく思ってしまう鏡があって、
日々、不思議に思って暮らしておりました。
ええ。

その部屋は、
僕の坊さん用の着物を置いてある部屋で、
葬式や行事の前には必ずそこで、
法衣をつけて、鏡を見ます。

その時に思うんです。

「おっ、悪くない顔してる。」

って。

シチュエーションから言って、
僕にしては、
気合いを入れて、

「いくぞっ」

と思っているタイミングなので、

「やっぱ、そういう時はいい顔になるものかな。」

と、なんとなく思ってもいました。

でも、最近気がついたんだけど、
この鏡って、
家の中で唯一、
大きな窓を背にして立ててある鏡なんです。

つまり、鏡をみる時に僕の顔に、
正面から自然光が当たってるんです。

写真家に、
本尊の撮影をして頂いた時に、
雲から太陽がでるのを待って、
その光を助手の方が境内で捕まえて、
反射させて、
本尊のお顔にあてていたのを、
思い出しました。

光が、顔に当たると
本当にいい顔になるんだねぇ!
はじめて、実際に感じたよ。

これはたぶん、陰影がでるとか、
どちらかといえば、
物質的な話題の話なんだと思うんだけど、

「心」もそういう構造を持っていることも、
ありえそうだよなー、と考えました。

心が光に顔を向けた時、
美しさみたいなものとか、
おもしろさみたいなものが、
自分に対しても、他人にとっても、
強調される。
ってことが、あるのかもしれないね。

これって、

「信じた方がいいこと」

のような気がします。
馬鹿に見えても、馬鹿にされても。


それから、
なんというか、
それだけでなくて、
物質的な原理みたいなものを、
「こころ」に適用することで、
似たような、
効果が発生することも、あるのかな。

例えば、

「“テコの原理”って、
 心の中でも使えるよなぁ。」

とか、

「“蒸発”って心の中でもあるよなー」

「穴があったら、
 水ってそこから流れ出るな。」

みたいなことがね。
(ちょっとアホみたいですが。)

僕は個人的にお釈迦さんは、

「心がわりと僕らが介入可能であるもの。」

と捉えていたような気がしてます。
なんとなく。

心はホントに、わけわかんないもんなので、
自然に動いて、飛び跳ねて、沈んで、

僕達自身が、本当に驚いたり、
びっくりしたりしてしまいます。
かなしくなったり。
(そうですよね?)

そういうのが、
あるからおもしろいし、
その多くの部分は、
どんなに逃れようと思っても、
逃れられない場面が多いのだと思うのだけど、

何かを飛び越えたり、
変化させたり、
物事を違った角度からみたり
するために、
宗教のアイデアが、
何か感じるところがあるなら、
いろんな人が利用するのもいいな、って
思ったりします。

仏教だけでなく、
いろんな宗教の言葉や思想に、
みんなも触れる機会が、
あったりすることも、あると思うけど、
(それが本屋の立ち読みであったとしてもね。)

その時に、

「あ、確かに私の心にも、
 こういう“性質”ってあるかもなー。」

という感じのアプローチだと、
わりに入り込めやすい
テンションで接することができるんじゃないかな、
と想像します。

「孤独は楽しい、自制は楽しい。」

なんて言葉も、唐突に聞くと、

「なんで?なんで?」

と興味をひかれたりします。

今思ったけど、
“宗教”から智慧みたいなものを、
引っ張りだそうと思うなら、

素直が得だし、楽。

なんじゃないかと思います。

人の“素直性”みたいなものが、
ある程度、個人の中で、
出し入れ可能にスタンバイできたらいいな。


ミッセイ


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2004-02-22-SUN

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