坊さん。
57番札所24歳住職7転8起の日々。

第153回 かんたんだけど、大切なこと

ほぼにちは。

ミッセイです。 

けっこう前の話なんですが、
友達の女の子と話していて、
妙に納得というか、

「そうだよなぁ。」

と思ったことがありました。

僕は、話す時のクセで、
もしかしたら、
考える時のクセかもしれないんだけど、

友達とばーっと話した後に、

「でも、まぁ、難しいんだけどね。」

と付け加える
ことが多いんです。
今まで、そんなには、自覚がなかったんだけど、
ずいぶん多いみたいです。

「自分は、
“こうしたほうがいい”
 っていうのは、わかってる気がしてる。
 
 でも、
 いろいろ“諸事情”があって、
 実現に至ってない。

 でも、
 するべきことは、
 わかってるつもりなんだよ。

 だから、“僕の理想論”だけでも、
 聞いて欲しくてね。」

長々と書くと、
そういう風に、
考えているのかもしれません。

その日も僕は、
例によって、

「ま、難しいんだけど。」

とずいぶん言っていました。

そして、そのほとんどに、
その女の子が、

「・・・や、多分むずかしくないよ。」

と、返事をしてくれました。

僕はちょっと、
面食らったような気もしたんですが、

「それもそうだなぁ。」

と、思いました。

生きていると、
難しいことも、
これは、まぁ、
多分間違いなく多いんだけど、
(多いのかな?)

「難しいんだけどね。」

と口にする前に、

「本当に難しいのか?」

「この難しい話に含まれる、
 かんたんな話って何だろう?」

と考える習慣を作りたいと思います。

「大切だけど、できていない、簡単なこと。」

というのは、結構ありそうな気がします。
少なくとも、僕は、多いなぁ。


この前、ばあちゃんと話していて、
(こういう書き出しが、
 なんだか、ずいぶん多い気がしますが。)

「そうだったのかー。」

と思ったんですが、

栄福寺には昔、
とても大きなクスノキがあったらしいんです。

僕は、そのことは前から知っていて、
大きな木がとても好きなので、

「その木が、今でもあったらいいのになぁ。」

とよく考えていました。

「なんで、切ったんだろう?
 もったいないなぁ。」

とも思っていました。

僕は、なぜだか、
戦争の時の話を聞くのが、
子供の頃、とても好きだったように、
(僕にとって、
 とんでもない非日常だったので、
 それを経験した人が、
 今でも存在することが、
 不思議な感覚がしていました。)

今でも、昔の話を聞くのが好きなので、
その木があった頃の風景について、
いろいろ聞いてみました。

近所の人やお坊さんにも、
木の話をよく聞くのですが、
その中でも特に好きなのが、

「その木が結局、どうなったのか?」

という話です。

碁の盤になっていたり、
たんすになってたりするんですが、
そういう話を聞くのが、すごく好きです。

結構、昔の木って、

“なにか”

になっている場合が多いんだよ。

栄福寺の前で竹を切っている人と、
散歩する時によく話すんですが、

「今は売れないから、燃やす。
 昔は、土壁を塗る時に、
 竹で組んでたから、買ってくれたんだけどなぁ。」

と言っていました。

そういえば、
栄福寺のクスノキはどうなったのか、
聞いたことがなかったので、
ばあちゃんに、

「その木は、どうなったの?」

と聞いてみました。

「今でもあるよ。」

とのことでした。

今でもある?
なんだろう?

と思い、

「なにになったん?」

と聞くと、

「大師堂の縁に、なったんよ。」

とのことでした。

大師堂を囲っている
今ではずいぶん年季の入った
木材になっていたんです。
知らなかった。
そんなに大切な役目をしてたんだ。

僕は、実はというと、
ほんとによく、
そのクスノキのことを考えていて、

僕の印象の中では、

「なくなるべきで、なかったもの。」

と感じていて、
ずっと残念な感覚を持ち続けていました。

でも話を聞いて、

「それって、
 クスノキとしても、
 たぶん申し分ない生き方だなぁ。」

と、うれしくなりました。

考えてみたら、
坊さんも、
寺の材のクスノキみたいな、
存在かもしれないね。

いろんなクスノキがありますが。

これは、聞いてなかったら、
聞けなかった話なので、
聞いておいてよかったなぁ。

と思いました。

「かんたんだけど、大切なこと。」

は、話を聞いてみることも、入るかもしれません。

「聞かなきゃよかった。」

って、話もけっこうあるので、
まぁ、難しいんだけどね。
(あー、また言ってしまった。)

「話せばわかる。」

という部分を
頭ごなしに否定してしまっては、
いろんなことが、抜け落ちるかもしれない。

そして、
話すという言葉を、
すこし“たとえ話”として、
話すとしたら、
いろんな“表現”みたいな存在さえも、
結局は、

「話せば、わかるか。」

みたいな話題を含むんじゃないかな?

「話しても、わからない。」

ことがあることなんて、
当然だと僕は思うから、

「もしかしたら、
 伝えることのできる、
 なにかが、あるのかもしれない。

 そうだとしたら、おもしろそうだなぁ。」

ぐらいの感覚が、僕には気持ちよさそうです。


みなさんには、

「かんたんだけど、大切なこと」

なにかありますか?

持ってたり、思いついた人は、
ぜひ、メールくださいね。


ミッセイ


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2004-02-08-SUN
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