坊さん。
57番札所24歳住職7転8起の日々。

第139回 ダライ・ラマから僕が受けとったもの。

ほぼにちは。

ミッセイです。

今日は文章のボリュームが、
通常の倍ぐらいありますので、
いつもはカップラーメンの待ち時間に
読んでいる人は、
先に食べた方がいいと思います。


実は、今、東京から戻ってきました。

両国国技館で二日に渡って行われた、
ダライ・ラマ14世の来日講演を
聞きに行ってきたんです。

僕は坊さんなので、
たぶんダライラマ法王猊下
(げいか、高僧や宗派の管長を普通、さします。)
とお呼びするのが、ふさわしいと思うのですが、
みんなには、なじみの薄い言葉だと思うので、
ここでは「ダライ・ラマ」と、
お呼びすることにします。
ラマという言葉自体、本来、高僧をさす言葉ですし、
「ダライ・ラマ」が尊称という
言い方もできると思うので、
そうしますね。

それから、
特定の宗教を持っている人は、
もしかしたら、
僕がダライ・ラマの言葉や
それに対して僕が受けた印象を
紹介することに違和感や不快感を
感じられるかもしれません。
(なにせ、“宗教的”に有名な人ですしね。)

しかし、ダライ・ラマは、
講演やその著作の中で、
繰り返し語られることがあります。
それは、伝統的な宗教を持っている人は、
どうか、
その自分の宗教を大切にしてほしい。
ということです。
ですから、ダライ・ラマは、
他の宗教と比べた場合の
仏教の優位性といった話は、
まったくしません。
それは、おどろくほど徹底しています。

ダライ・ラマは、
宗教を持っている人を、
どちらかと言えば、
やさしき「同志」のようなイメージで、
捉えているように、僕には思われます。
(僕の元にも様々な宗教を持つ読者から、
 あたたかいメッセージが、
 数多く届いていることも、
 同時に紹介させてもらいます。)

彼は宗教を原因としたすべての戦争を、
誤った解釈や誤解の集積の
ようなものとして、考えてもいるようです。

もちろん「生き物」や「人間」に対しても、
似た種類のシンパシーを抱いているような、
印象を個人的に受けました。

「個人的に受けた」
という言葉はこれから、
この文章にとって、
とても大切な言葉になります。
どうしてかというと、
これから、僕が話そうと思っていることは、
すべて、「僕(ミッセイ)が」個人的に、
受けた印象でしかありません。
ひとつの、
とても、ささやかな解釈でしかありません。
紹介する内容もすべて記憶ですので、
間違った記述があるかもしれません。

どうか、
正確なダライ・ラマの言葉に
興味があるとしたら、
あなたなりの方法で、
アプローチしてもらいたいと思います。
例えば本を買ってみるとかね。

ただ、僕は
とても大切な、ふるえのようなものを、
彼から受け取った気がしているので、
それをあなたに伝えたいという気持ちは、
確かに、強く持っています。
また、自分自身が、
書くことによって強く確認したいのかもしれません。

ところで、
僕とダライ・ラマとの出会いは、
よしもとばななさんの、
ホームページでの日記です


もちろんダライ・ラマの
名前は知っていましたし、
著作も何冊か持っていましたが、
途中で挫折していました。

誰かが、なにかを、どこかで、
(それが小さな声であったとしても。)
伝えてくださるのは、
本当にうれしいことだと思います。
そして、そういった実感のいくつかは、
おこがましいですが、
僕が、僕なりに、感じたことを
みんなに伝えることの勇気にも繋がっています。

そんなきっかけも、あったりしたので、
今回の講演のオープニングで
ダライ・ラマを紹介されたのが、
よしもとさんだったのは、
会場の多くの人と同じように、
僕も驚きましたが、
それ以上にとても、うれしかったです。


今回の講演の前半は、
おもに若い人達を対象にした無料講演、
「慈悲の力」でした。

ここで、
僕が強い印象を感じた内容は、

「愛を持つことについて、考えてみてください。」

ということでした。
あなたが、例えば、愛を持っているとして、
それを、
他の人達と分け合うことが、
できたとしましょう。
他の人に愛を提供できたとしましょう。

その場合、あなたに、
なにか、困ったことは、起こるでしょうか?
それは、なにか、まずいことなのでしょうか?

そっちのほうが、いいとは、思いませんか?

繰り返し、なんども、考えてみてください。

話は、とて論理的なのです。

法王は繰り返し、
「論理的」という言葉を、使われました。

「すこし、考えてみたら、簡単なことなのです。
 そして、とても論理的なのです。」

そして、人間が必ず、
「よくない側面」を持っているのと同じように、
ほとんどの人が、「よい側面」を
もっていることに言及されました。

たとえば、愛をかならず持っています。

それを、よく観てみてください。
発揮してください。

そんな事を、
語ろうとされていたように感じました。

そして、よいニュースは、
ほとんど聞こえない声でしか、語られない。

ということを、強調されました。

毎日、報道されているような、
悲惨なニュースは、
異例であるからこそ、
ショッキングであり、
大きな声で語られるのです、と。

たしかに、ビルの屋上から
人が突き飛ばされたかもしれない、
この瞬間にも、
その何倍もの多くの人が、
人の背中を借りて、病院に運ばれたり、
手を引かれて道路を渡ったり、
しているのはひとつの事実だな。
と思いました。

そして、もちろん、これは、
報道ニュースに限定した話ではなくて、
あらゆることの「たとえ話」に
成り得る話だと、感じます。 

「我々は、いいニュースにも、
 耳を澄ませなければ、なりません。」

「そして、時に、楽観的で、なければ、なりません。
 例えばあなたには、
 近くにいる人を愛することができるのです。
 家族を愛することができるのです。」


そして、同時に、人間の持っている、
「本質的な哀しみ」のようなものに、
ついても、話は進みました。

それは、僕達が確かに持っている

“無常”について、よく考え、
想像しなければ、ならないということです。

僕達は、死にます。
愛する人も死にます。

明日死ぬかもしれません。

例えば、
そのことについて、
繰り返し考えるべきだと、語られました。

あんまり考えすぎても始まらんことだな、
と僕自身は考えていましたが、
時に冷静に考えることは、
重要なスタートのための
準備のようなものかもな、
と思いました。

その事は、
忘れられるべき事ではないかも、
と感じました。


「苦しみの発見」
に敏感であったほうが、いい。
というのも、おもしろいと思いました。

いいニュースにも、敏感であると同時に、
様々なものや、ことから、
「苦しみ」を発見してほしい。
原因をみつけ、立ち向かってほしい。

あなたが、「よいこと」だと
単に考えている事は、
実は、「苦しみの原因」や
「苦しみそのもの」でさえ、あるかもしれない。
それを常に考えなければならない。

という視点は、仏教の

「一切皆苦」(すべては苦しみである。)

という言葉が、なんとなく、
ネガティブに響きすぎることがあるなぁ、
と感じることが多かった僕にとって、

「あらゆる存在から、
 苦しみや哀しみを発見するという技術が、
 “一切皆苦”という、
 視点なのかもしれないなぁ。」

と思わされるものでした。
そして、その原因を深く想像して、
対処しようとする態度、
という部分が、重要なんだろうなぁ、
と考えました。

「生きること」は、
楽観的に観るべき、
よろこびに溢れたものであると同時に、

苦しみと哀しみが、
大きく含まれている。

そして、それは、
「大きなもの」
に包まれていてほしい。

ダライ・ラマはそれが、
「こころ」である、
と語っているように感じられました。

「こころ」が、
巨大な存在になることのできる、
可能性について語られました。

確かにこころは、
数値化できないので、
みくびられることも多いのですが、
その大きさの可能性を大切に想像し、
語るのと同時に、
直面したものが、
時にひどく小さなものであったとしても、
それを注意深くみて、
正直に観察することは、
重要だと僕は思います。

そして、これは、
とても大切な言葉だと考えるんですが、
会場からの質問に答える中で、

「ものごとは、ゆっくりすすむ。」

という事を、伝えられたことです。
たとえば、僕や会場にいた人達が、
今回、ダライ・ラマの話をきいて、
「愛」や「慈悲」について
深い理解をしたと感じ、
この瞬間から、自分が音をたてて
変革するような気がしたとしても、

「ものごとは、そう簡単にはいかない。」

という気がします。
いろいろなものは、
時にとても、ゆっくり進むことは、
大きな事実だと思います。

僕達は、冷静に深呼吸をして、
前を見据えて、あせらず、
いいニュースを聴こうとする
態度が必要なんだと思いました。

そして、
「怒り」というのは、
大いに利用することのできる、
最高の教師になり得る。

ということを、語られました。

あなたは、あなたを辱める怒りの相手と、
対峙する時だけ、

あなたのやさしさを、
本当の意味で確認することができ、
誇ることができる。
強度を示すことができる。

全ての存在は、
教師になり得るのだから、
誰といる時でも、
他者をもっとも優れたものとして、
自分を一番下に感じてほしい。

という内容を話されました。
ダライ・ラマの話には、

「謙虚」と「誇り」

「強く求めること」

「求めすぎないこと」

「単純」と「微細な複雑さ」

なんかにおいて、
その曖昧に見える境界線に、
自分なりの柔軟なラインをひいて、
状況によって、
うまく選択するように、

そして世界やこころは、
変化しながらも、
両方が存在することを、
表現されていると、
「僕」には感じられました。

でも、
なかなか難しいですよね。

例えば、怒りの対象に、
愛を感じることは。

帰りの車の中で、
考えたのですが、

それは、「愛」や「慈悲」、
という言葉で選択しようとすると、
瞬間の感情に
「やられてしまう。」
と、思います。僕自身は。

そこで、僕は、
「楽」という言葉を利用しようと思います。
この言葉を僕は、
「苦しみ」の「反対語」として、
あえて、単純に設定しみたいと思います。

僕はこの言葉が、
なんだか、大切なものとして、
ひっかかっていて、
(正直に言うと疑い深く思っている面も大きい。)
犬に「デワ」
(たしかチベット語で“楽”だったと思う。
 誰かから、聞いた話ですが。)
という名前を付けたいと、
考えていたほどです。
今の最有力候補は「さくら」ですが。

簡単にいうならば、
(そしてダライ・ラマの言葉を借りるならば。)

「論理的に考えましょう。」

ということだと思うんです。

「そこで、怒りを持って対峙することで、
 事態は好転しない。」

という状況がかならず、存在すると思います。

それならば、楽を求めて、
愛を持てかもしれない。
慈悲を持てるかもしれない。

常識的に聞こえる
それゆえ限定的な言葉よりも、
自分と他人と世界に、 
伝えるべき“楽”がある。

そんな風に受け取りました。

これは、人によっては、タチの悪い
冗談のように感じられるかもしれないし、
僕自身、
これからも多くの怒りを持つことを、
確信せざるを得ない中でも、
いくつかの大切なメッセージが、
含まれていると強く感じるし、
深い祈りを感じます。
そして、
チャレンジしたいと思っています。

長くなりました。

ダライ・ラマは、愛について語った。
というのが、僕の一番の印象です。


そしてあらゆる場面で、
注意深くなければならない。

あなたは、愛を持っている。
それを、誰かに渡すことができる。

それは、強い力を持っている。

でも、時にそれは、簡単な話ではない。
僕達は、勇気を持たなければならない。

「愛は、こころの勇気であると思います。」

僕達は、敗れ去ったとしても、
愛を持たなくちゃいけない。

負けるからこそ、
(例えば誰でも死ぬということ)
愛を持つことは、
道理にかなった、
僕達を“励ます”なにか、
を持っているような気がします。

ダライ・ラマは、
会場からの質問に英語で答える、
いくつかの場面で、

「I believe ̄」(私は信じているのですが、)

と始められたのが、心に残りました。
それは、主に
宗教的な信仰にかんする話ではなくて、
僕達のなかの、
とても大切な何かに対する、
「ビリーブ」
だと感じました。

僕は、この言葉の響きと声を、
そして意味はわからなくても、
低く響き渡るダライ・ラマのチベット語を
ずっと、こころに置いておきたいと思います。

そして、とても大切な話だと思うのですが、
これは、(今回紹介した全ての話が)
ある一面において、
とても個人的な話でもあるというのが、
今の僕の考えです。

僕には僕によってだけ、
あなたにはあなたによってだけ、

救われて、赦され、
強度を得るべき物語がある。

というのが、何となく感じている
僕の考えでもあります。

そして、最初に触れたように、
全てが、とても限定的な僕の解釈です。

「坊さん」を注意深く読んでくれている方ならば、
僕が深くこころ寄せている、
表現者達のメッセージと、
今回のダライ・ラマのメッセージを
僕が記したものとが、
多くの類似点を見せていることに、
簡単に気付くと思います。

「僕は、あらかじめ用意された、
 “聞きたかった話”
 を、かいつまんで自分勝手に書いただけ。」

という言い方だってできるのです。
個人的な物語においての、
注意深い客観性は、
ひどく主観的な側面を持ちますよね。

だから、特に客観的になろう。
とは深くは考えずに、
時に冷静に、時に興奮して、
こころが流れるままに、
注意深く話してみました。


法王猊下。
本当に、どうも、有り難うございました。

そしてその言葉が、
僕のような愚弟を通して、
誰かに伝わることを深く恐れます。
でも、ささやかながら、
ありったけの、
なにかを込めて、記しました。

そして、多くの人にとって、
それがよいことだとも、
同時に思うのです。

愛を込めて。


ミッセイ


このページへの激励や感想などは、
メールの表題に「ミッセイさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2003-11-23-SUN

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