坊さん。
57番札所24歳住職7転8起の日々。

第130回 なんで生きるんだろう?(あはは!編)

今日の夕方、
栄福寺の本堂に、ただ座っていて、

「なんで、生きるんだろう?」

と、思ったよ。

本当に思ったんだから、しかたがない。

あはは!


なんで、生きるんだろう?


生きる事の目的を、
呆然と思っていると、

いつ、おもしろいか。

に、自然と耳を澄ませた。


それは、あたらしい時。

だと、思った。その時は。

あたらしい時、
僕の心は、境界線をこえて、
動き回る。

心は、とても、元気になる。

でも、その、興奮は、
なんと、おおくの、かなしみと、共にあるんだろう。

そのことは、
僕に、たくさんの、躊躇をくれる。


最近、仏教の言葉でもある、

「楽」

だとか、

「安心」(あんじん)

という言葉を思い浮かべる。

とどまった、心への、想像は、
僕に、躊躇に似た恐怖心を持たせる?
でも、決して、すべてが灯ることのない、
無数のロウソクをたたえた燭台のある部屋が、
すこし、見えにくいとしたら。

ほとんど、真っ暗、闇だとしたら。

僕は、火のついているロウソクが、
すこしでも、多いほうが、うれしいと、思ったよ。

「決して、すべてが、ともることのない。」

という、
あきらめでない、想像は、
なぜだか僕に、やわらかい、安心をくれる。

なんで、だろうね?


突然、本堂に、

「生きる、など、そもそもは、ない!」

という、声が響く。

ホントかよ?ウソだろう?

「でも、欲しいとしたら、自分で考えてね。

 そっちのほうが、いいならね。」

すこし、おちゃめに、それは言う。

僕は、その時、本当に、声をあげて、
何度も、笑ってしまった。

誰かが見たら、僕は、狂ってるみたい。

「あはっぁはっはっはははっはははは。」

僕はわらう。


僕が、欲しいものは、
点みたいなものではなくて、

ふるえとかに、近いものだと思った。

欲しいというのとも、
ちょっと、違う気がするんだけど。


と、ここまで書いて、
お風呂に入ってきたんですが、
湯船の中で、

「“すべてが、ともることのない“

 っていうルールみたいなもの自体が、
 “かなしみ”って、ものなのかなぁ。」

と思いました。

かなしいのって、
かなしくない時に、
思い浮かべると、
ぜんぜん、悪くない印象があります。

かなしい時は、すごく、いやなんですけどね。





ミッセイ


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2003-09-16-TUE

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