坊さん。
57番札所24歳住職7転8起の日々。

第119回 グラマンの世代と都会の空

ほぼにちは。

ミッセイです。

電車の中で、
僕はいろんな事を、
考えるんだけど、

新幹線で、
「神戸」とか「大阪」とかの、
(少なくとも
 田舎に住む僕から見れば)
“大都会”の風景を見ていると、

「建物が、
 とてつもなく、
 いっぱいあるなぁ。」

と、思います。

「土も、緑も、全然みえない。」

でも、それと、一緒に思ったんだけど、

「都会にも、空はあるなぁ。」

ということを、感じました。

新宿のオフィス街にも、
難波の歓楽街にも、

空はある。

“人がつくったもの”

も、僕は大好きなものが、
多いけど、

“自然がつくったもの”

“元々、あるもの”

は、
時々、見ると、
なにかあるかもしれない。

気持ちいいと思います。

都市に住む、
僕の好きな写真家達が、
時々、空にレンズを向けるのは、

そういうこと、

かもしれないですね。

そして、
僕達が今日、見る空は、

縄文人が見た空と、
平清盛が見た空と、
ベーブルースが見た空と、

とても、とても、よく似ています。

そんなことを、
考えていると、

いつか、
テレビから流れていた、
坂本九さんの歌を、
知ってるところだけ、
ハミングしていました。

「うっえー、をぉ、
 むぅ・う・い・てぇ、
 あーるぅ、
 こぉ、お、お、お。」

「みぃーあーげ、てぇー、ごらんー、
 よぉるのぉー、ほぉーし、をぉーー。」

ほとんど、
曲名しか歌えなかったけれど、
たぶん、いい曲なんだろうなぁ。

欲しくなりました。


以前、
伝授を受けたことのある、

「柴燈護摩」(さいとうごま)

という野外で行われる、
火を使った、
修法があるのですが、

その修法を、
修される法会が、
四国47番札所の、
八坂寺さんで、
執り行わました。


壇の前の御導師様

僕も、
お手伝いおよび、
実際に法会を執り行う、
職衆(しきしゅ)の、
お坊さんの1人として、
参加してきました。

みんな、
日本の古来信仰である、
修験者(しゅげんじゃ)
の格好、
いわゆる山伏(さん)
の着物を付けています。


修験者の着物

いろいろ、
通常の儀式では、
経験のすることのない、
事が多くて、

音の鳴る、
法螺貝(ほらがい)を、

「パオーー」

と吹く人がいたり、

「引敷(ひきしき)」という、
たぬきや、キツネの毛皮を、
腰に付けたりします。


ひきしき

これは、
山での修行中、
腰掛ける時に、
おしりに敷くということでした。

お坊さんが、
山伏さんの格好を、
するのはちょっと意外ですか?

実は、
僕も最初そうだったんですが、

歴史的に見ると、
かなり昔から、
仏教宗派の一部との、
結びつきが強力だったようです。

特に、土着の信仰と、
結びつきやすい、
(それだけの理由では、
 ないんだろうけど。)
いくつかの「密教」の教団とね。

僕も、初めて、
着物をお借りして、
修験の格好をしてみたのですが、

なんだか、
身につけてみると、

「ああ、これは、
 “日本”のものなんだなぁ。」

と妙に感覚的に、
しっくりときました。

その事を、
先輩のお坊さんに話すと、

「そうやろ?

 “これに、かけてみよう!”

 って、気がするやろ?」

と聞かれたので、

「そこまでは、思いませんねぇ。」

と、正直に言ったら、
大笑いされておられました。

でも、
宝剣(ほうけん)
という刀を使ったり、


宝剣を持つ八坂寺さん

するのも、
不動明王みたいで、
なんだか迫力がありました。

こういう“行事”の風景も、

「元々あった風景」
「いつか、みた、風景」

として、すこし、“空”みたいだね。

僕も、
修験の装備を揃えるかもしれません。
“山を歩ける”程度の。


家に帰って、
ばあちゃんと話していたら、

“グラマンに追いかけられた”

話になりました。

これも、
いろんな意味で迫力あったなぁ。

戦争中、
大阪にいたばあちゃんが、
町を歩いていたら、

「グラマン」という飛行機が、
地上に急接近してきたそうです。

そして、
一斉掃射をはじめました。

ばあちゃんは、
地面にはいつくばって、
飛行機の方を見ました。

「その時に、
 操縦士のゴーグルが、
 はっきり見えたのを、
 鮮明に、憶えてるわ。」

そんな時代が、
「ばあちゃん達の時代」
だったんだー。


と、あらためて、驚きました。

「空から急に一斉掃射されるという時代」

そして、
ばあちゃんが、
時々見せる、

「なにがあっても、
 肝がすわってる感じ」

は、こういう経験も、
関係してるんだろうなと、
想像しました。

じいちゃんの葬式の時に、
僕が付けたことのない
袴(はかま)で、
あたふたしていると、

「大丈夫、大丈夫。
 ばあちゃんがおるから。」

と、言ってくれたことも、
あったなぁ。

そして、
僕は仕事でも、この

“かなーり、上の世代”

と、関わることが多いんだけど、

「力があるものを、
 (例えば組織的な“権力”とか)
 極端に恐れたり、嫌ったり、
 異常に重視する事」

というのも、
こういう背景と、
関係あるんだろうなぁ、
と思いました。

僕は、
こういう方々と、
話し合ったり、
新しい方法を模索したり、
組織作りをする立場にあるので、

その人達の、

「強さ」と「弱さ」を、
充分ふまえて、
話をしないと、

なかなか、
スムーズに話が進まないだろうな、
と感じました。

これは、
“戦争”や“世代”
に限定した話ではなくて、

“自分”という
1つの立場から見れば、
“相手”“他人”というのは、

「その人なりの
 とっても
 “特殊”な環境なり境遇」

を経て、今に至るのだ。

という考えてみたら、
当たり前の理解が、
かなり、大切なんだと思います。

「だから、
 コミニケーションを諦める。」

のじゃなくて、
相手が他人である、
“特殊性”にも、
時々、目を向ける。

これは、

「とても近くにある存在」

だって、そうなんだろうけど、
僕はよく、忘れてしまいます。

「人は、違うところよりも
 同じ部分の方が、ずっと多い」

という事も、
とても大切だと、
以前、僕は書いたし、
今でも、そう思うけれど、

「同じところ」

にも、

「違うところ」

にも、
敏感であった方が、
たぶん、おもしろいし、

鈍感だと、
ちょっと、
危なっかしいんだろうな。


ミッセイ

2003-07-08-TUE

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