坊さん。
57番札所24歳住職7転8起の日々。

第101回 ただ、求めた。

ほぼにちは。

ミッセイです。

だんだん、暖かくなって、
四国を訪れる「お遍路さん」も、
多くなってきました。

特に、
今は、時間的に余裕のある、
大学生の休みと重なっているのも、
あると思うけど、

「歩き遍路さん」が多く、巡礼しています。

若い歩き遍路さんは、
“巡礼”を結構、
ざっくばらんに捉えているらしく、

「現在失恋中!」

という旗を翻しながら、
歩いているお遍路さんを、
一度、見かけたことが、あります。

「ハハハ」

と、単純に
笑ってしまったんですが、

一体、彼は、
失恋中であることを、
世間に告知して、
どのようなメリットなり、
カタルシスがあるんでしょうね?

みなさんは、どう思いますか?

僕は、

「あんまり、ない。」

と、
結論づけました。


僕が、住職として、
お寺の事業なり、
伽藍(がらん、お寺の建築物)の方向性、
を決定する基準として、

「古いものは、できるだけ、残して、いかして。」

という、
自分の中では割に、
厳格な「決まり」があります。

例えば、
栄福寺の石の「空海像」は、
背中(バックの背景)の部分が、
僕達の住んでいる家なので、
もっといい雰囲気にしたいねぇ。

みたいな話になりました。

「竹で柵を作る。」

という話が、最初に出て、
黒竹(くろちく)を使おうとか、
(黒っぽい竹があるんです。)
いやぁ、槙(まき)だろう。

とか、話になってきたところで、

「木で、格子を作ると、いいんじゃない?
 大師堂に大師像があるイメージ。」

と、僕がアイデアを出しました。
なんか、よくないですか?

そこで、母親が、

「ミッセイさん、
 本堂の戸を修復した時に、
 はずした、大きな戸が、あるよね。
 アレを使えば、いいんじゃない?」

という事を言いだして、

「おー、いいね!
 そー、そー、そー、
 そういうことだよ。
 わかって、きたじゃない!
 きみぃ。」

とエラソーに、
お褒めしたのですが、
うまくアレンジできるかどうか、
わからないので、
実現するかどうかは、わかりませんが、
まぁ、そういうことです。

でもね、
僕はこの方向性を、
もちろん、
変更するつもりは、ありませんが、

「古いほうが、本質的である。」

とは、考えていません。

あるいは、

「古いというだけで、すばらしい。」

とも考えていません。

もちろん、“部分”としては、
そういうのも含まれていると、
思いますが、
全面的にそうでは、ないと思うんです。

インディアンの文化とか、
“原住民”の民族音楽を、
とても、とても、
愛好している人達の一部が、
もっている雰囲気が、

「ちょっと、苦手だなぁ。」

と感じることが、
僕はたまに、あります。

「現代ってさぁ、あきらかに、
 人間が持ってる、
 “本質的”のモンを、
 全部、ぶち壊してきたよね?
 ねぇ、そう思わない?」

「この響きの中には、
 全てがある。
 風・土・涙・笑い声。
 
 そう、僕達が、
 失ってしまったもの、すべてが。

 次の曲は・・・・」

みたいなね。

本人が本当に、
そう考えるのなら、
それは、完全に自由なんですが、
個人的には、
ヘンな感覚を受け取ります。

こういうパターンと同じように、
「古いもの」を大事にする人達が、

「古いもの原理主義」に、
なってしまっている事が、
僕の見る限り、少なくないと思うんです。

古いものには、
いいものが詰まっていて、

新しいものには、
悪いものが、いっぱい
つまっている。

そういう考え方って、
正直、しんどそうだなぁと思います。

両方に、
両方の要素があるよね、当然。

今日、
職人の方と話す時に、
あまりにこちらの知識が、
少なすぎて、居心地が悪いので、
左官さん(壁塗り職人)や、
土壁に関する本を読んでいたのですが、

「土壁愛好家」の人達のための雑誌の中で、

「80歳ぐらいの、おばあさんが、
 ふるーい土壁の家の、
 窓から顔を出して、
 にっこり笑っている。」

という、

“たまらん人には、たまらん”

という感じの写真が、
掲載されていたんですが、

僕は、いささか、
ひねくれているのかもしれませんが、

「この人、自分の家の風呂が、
 プラスチック製の、
 全自動になったら、
 無茶苦茶、喜びそうだな。」

と思いました。
ひとつの可能性として。
いい、わるい、で、なくて。

数多くの
“一般的な”田舎のお年寄りと、
実際に、ふれあうことが、多いので、
彼らの“欲求”について、
かなり、リアルに感じられるからかもしれません。

「新しいもの」「古いもの」
どちらを、好むこともあるけれど、

それは「いい」「わるい」の話ではなくて、

「ただ、あなた(僕)が、
 それを、求めた。」

欲求した、いいと思った、こころ動いた、

だけの話だなぁ。

と思います。

そこを、認識しないと、
話が、とても、ずれてくる。

なんか、
いろんな人が、
(自分も多分に含めて)

いい、わるい、を
説明しようとしすぎて、

「おもしろいもの」
「欲しいもの」
から、
離れていっていることが、あるなぁ。

と思いました。

いくつかの場合においては、
「欲求」だけで、
動いて、いいはずはありませんが、

「前提」として、
それは、
自分の優先的な場所に
置いておきたい。

今、僕が、話していることは、
“だれか”に対する、
批判めいた事じゃなくて、

また、
新しい、古い、だけじゃなくて、

いろんな「ジャンル」を、
「ジャンル」で固めてしまって、
「いい・わるい」っていう
“しかけ”で、考えて、
守ったり、攻撃しようとすると、

“つまらなそうだ。”

ということです。

そして、「宗教」というのは、
とても、
そういう袋小路に陥りやすい
と考えます。

ある意味、
お寺というメディアの
「送り手」でもある自分としては、

できるだけ多くの人に対して、
繋がっていられる、
ポップなパイプを持っていたいけれど、

同時に、
とても小さな「個」とも、
強烈な感情でぶつかりあいたい。

という欲求が確かにあります。

うれしいんだけど、
こまったもんだ、
とも思います。

ミッセイ

2003-04-02-WED

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