坊さん。
57番札所24歳住職7転8起の日々。

第97回 思いを想像して、スケッチする。

ほぼにちは。

ミッセイです。

僕が栄福寺の住職として、
お寺に晋山して、
時が、いくらか、過ぎました。

そして、
僕自身の考えが、
すこし、

“おだやか”

に、なって来ていることを、
感じていました。

“おだやか”と言う意外、
うまい、言い方を知らないんだけど。

この“おだやか”は、
結構必死で、
少し獲得した、
僕にとって、結構大切なもので、

「丸くなった。」

とか、

「ヤワになった。」

とかとは、ぜんぜん、違います。

と、思います。

自分自身の思いや、考えを、
表現するのが“お寺”である。

という考えの成分が、
多くを占めていた、
僕の頭の中が、

大きな流れの中で、
体を、ゆっくり、
くねらせて、
踊ったり、泳いだりするように、
他の人(現代に生きる人だけでなく。)
の話にも耳をすます。

方向にシフトしているのかなぁ。
と、自分で自分を観ていました。

ふすま一枚で、ケンカすることも、なくなった。

「うん。いいよ。」

という回数が増えてきた。

今できることを、今の方法で、
すればいいよ。

と、思うようになった。

でも、東京に行った時、
ある建築家の展覧会に足を運んで、
奇妙でおもしろい形の(僕にはそう見えた。)
巨大な模型を観て、

建築家、伊東豊雄さんの
事務所で働く兄の
話を聞きながら、
 
「“今”できないことでも、

 いつか、したい。

 ホントは、したい。

 ことを、
 めいっぱい想像して、
 できる限り
 詳細にスケッチする。」


ことも、大切なのかも。

と思いました。

そして、

「理想の形と、離れているのなら、
 やめておく勇気。
 もっと考える好奇心。」

みたいな感情が、
僕には必要かな?

と考えました。
もちろんバランスが必要で、
重要な話ですが。

と、いうのも、
この建築家の作品は、
コンセプトが斬新すぎて、
なかなか実際の建築としては、
実現されていませんでした。

でも、
革新的な都市計画や
設計図案をいっぱい、発表して、
すごく注目されていたようです。

で、近年になって、
たぶん、
技術的な問題がクリアになったのも、
あると思うんだけど、
次々に彼が設計し、“空想”した、
建築が立ち始めたということです。

かっこいいなぁ。

と思いました。

気持ちよかっただろうなぁ、

と思いました。

恥じらいが少なめですので、 
すぐに、自分に結びつけますが、

僕は、“お寺”という、
未知の場所に入った時、

もっと、
“あからさまに現状では不可能な話”
を大きな声で、していた。

線の入ってない、
まっしろなノートと、
ボールペンに蛍光ペンを
用意して、

夢をスケッチしていた。

それは、単に
現状認識が圧倒的に不足していた、
というのが、大きな要因なんだけど、

僕は、今、

「現状を認識した、野心家の馬鹿。」

に、なろうと思うんです。

この馬鹿は、
必ずどこかで馬鹿と言われるけれど、
今は別に、かまいません。

ずっと、死ぬまで、言われるかもしれません。

それでも、かまわないかなぁ。

と思います。

ちょっと、イヤだけど。

“できることを、可能な方法で”

することは、
もちろん、否定できないし、
これからも、たくさん、
するけれど、

不可能な夢を、
できるだけ大きな声で話して、
設計図の部品のパーツを、
探し続けて、集めることも、
やめないようにしよう。

そして、時にラフに、
時にとっても詳細に、
スケッチしよう。

と思います。


この前、書いた

「人間は同じ部分のほうが、
 ずっと、多くて、
 その人達の“気持ちよさ”
 を、探したい。」

という気持ちは、
大切な“気づき”として、
僕の中にあります。

でも、今の話と、
その話は、

「出会ってこそ。」

って気がするんだよね。

大切なものって、
いろんなものが、
寄り集まってる気がするんだ。


昨日、たまたま行った
「無印良品」で、
線の入っていない、
真っ白なノートを何冊か、
買って帰りました。



我ながら、
単純さ加減に呆れます。

このノートと、
パワーブックと
アタマとカラダで、
夢をみるのは、とても、
楽しそうだと、
僕は思います。

ミッセイ

2003-03-19-WED

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