坊さん。
57番札所24歳住職7転8起の日々。

第83回 長老に引導を渡す。

ほぼにちは。


早朝、
檀家さんがやってきて、
檀家長老であり総代長である方が、
亡くなられたことを、告げられた。

うまく信じられなかった。

雨の本堂にぼんやりと立つ。

僕が栄福寺に、帰ってきてから、
ことあるごとに、
(若い住職の寺では、
 本当にいろんな こと が ある。)

僕を守り、助けてくれた。

恩人である。

引退していたが、
元大工棟梁であり、
栄福寺の本堂は彼の父親が、
僕達が住んでいる庫裡(くり)は、
彼が建てた。

やさしいひとだった。

“みている”人だった。

おしゃべりの僕は、

「すげえなぁ。」

といつも思っていた。

「慈観」という言葉が頭に浮かぶ。

でも、これからも、
いろんな人に、
いろんなこと、
教えてくれるんだろうなぁ、と思い

戒名には「慈照」という言葉を使う。

その夜、枕経に行くと、
やはり長老は亡くなっている。

死んでいる。

人は死ぬんだと思った。

奥さんに、

「おっさんに、会いたいって言ってたよ。
 なにが言いたかったんやろうね。」

と言われ、
だいたい、理解できる。たぶん。

亡くなった人を、
仏弟子にする儀式として、

僕はイメージで、
長老を剃髪する。

その時、こんな偈を口にする。

流転三界中(るてん さんがいちゅう)

恩愛不能断(おんあい ふのうだん)

棄恩入無為(きおん にゅうむい)

真実報恩者(しんじつ ほうおんしゃ)


「我らの世界に生き、
 死んでいる内は、
 愛を断つことはできない。

 生死を終え、
 愛を失うことは、
 
 本当の愛に報いる
 ことでもあるんだよ。」

という風に僕は理解している。

「生生生生暗生始 死死死死冥死終」

では、あるけれども。

葬儀までの時間、
葬式で使うお経を
ノートに書いて、
想いを込める。

そして、
授ける印を何度も組んでみる。

深夜までかかって、
葬列に使う幡、
位牌、塔婆、角塔婆、
葬儀で読み上げる諷誦文(ふじゅもん)、
を書き上げる。



誰かのために、
精一杯がんばる。

ということは、
自分をとても、
元気にすることだと思いました。

葬儀の合間、
長老の写真を見て、

「僕のやり方で、
 精一杯、楽しみます。」

と、約束する。

お別れの挨拶で、
弟さんが長老の人生を語った。

大工として、何件もの家を建て、
僅少檀家の栄福寺を、
住職と共に必死で支えた。

僕は、
「榮興院」という院号を贈った。

葬儀、
初七日の法事も終わって、
家族とみんなで食事をとった。

7人の孫は、僕と同世代である。

「和尚さん、
 私の手帳に戒名書いて!」

手帳を開けると、
恋人らしき人と、
二人で撮った写真が
ひらひら、落ちる。

コップ、一杯の日本酒で
顔を真っ赤にしたにーちゃんが、

「御住職、
 新しいパワーブックが、
 OS9で起動できる最後のマックなんですぅ!!」
 (パソコンの話)

と熱く語る。

ガハハ、と笑う。

いろんなところで、
いろんな人が、

ガハハと笑う。

それは、とても、とても、
素敵な事だと思った。

さようなら、長老。

これからも、
どうか、
御願い致します。

ミッセイ

2002-12-16-MON

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