坊さん。
57番札所24歳住職7転8起の日々。

第64回 正直なメディアを持つということ。

ほぼにちは。

ミッセイです。

以前、
トイレの構想が、
僕の頭のなかで、
膨らみが始めたことを、
書きました。

石の手洗を中心にした、
とってもスピリチュアルなトイレット。

そのとき、話に出てきた、
石の彫刻家、和泉正俊さんのホームページから、
夢をメールに託しました。

僕が、誰かと、
真剣にコミュニケーションしようとする時、
最後に言う言葉は、決まっています。

「“ほぼ日刊イトイ新聞”というホームページで
“坊さん”という連載をしています。
 正直に書いているので、読んでみてください。」

相手が
芸術家であっても、
坊さんであっても、
雑貨屋のにいちゃんであっても、
おんなじです。

ここに書かれていることは、
全部、僕の正直な言葉です。

それを、読んでもらって、

「一緒に、仕事はできないな。」

「一緒に遊びたくないな。」

って思われたのなら、
笑顔で「そうですか!」って言えます。

本当に、ホントーに、
正直なメディアを持つ事って、
便利で、速くて、誤解がなくって、気持ちがいいです。
そういうメディア、増やしたいよね。

夢を語ったメールから、
栄福寺の写真を送ったり、
構想の概要を送ったりしながら、
僕の考えを知ってもらいました。

そして、先日、お参りをかねて、
和泉正俊さんが栄福寺に、来られました。

お参りを済ませた和泉さんに、
トイレという空間に
なぜ作品を置きたいと思ったか、話しました。

ばあちゃんも、お母さんもその事が
理解しづらかったみたいです。

「芸術家に対して、失礼だ。」

僕の考えは、こうです。

「芸術は生きる事に、すっごく、関係している。
 生きる事と、排泄はすっごく、関係している。

 トイレは“行かざるを得ない空間”で、
 “究極の生活の場”です。
 そこに集った人達が、出会うはずのなかった
 芸術に先入観なく接することは、
 理想的な“出会いの場”だなって思います。」

和泉さんからは、こんな、言葉が。

「体や精神が“浄化”する空間だといいね。」

密教の修業をしていた時、
修法の途中で、トイレに行くと
“沐浴”(もくよく)といって、
裸になって、体を水で浄めていました。

これは修法を大切にする為の、
象徴的な装置であることは、
頭で理解していても、

「なにかを、“下に見て”相対的に
“それ”の地位を上げようとしても、
 “それ”の本質って変わらんかもな。」

と感じたのを思い出しました。

僕なりの
「排泄へのリスペクト」
を形にしたいなって、
和泉さんの言葉を聞いて、
強く思いました。

その後、いくつかの予定地に立って、話しました。
トイレの話を離れて、
お寺という空間についても、
たくさんのアイデアをもらいました。

“十年で大きくなる木”
“足し算の空間から、引き算の空間へ”

今の栄福寺という空間への
いくつかの、
彼の美意識との相違点も
正直に、話されていたように、僕は感じたので、
もしかしたら、計画は流れてしまうかもしれない。

でも、僕は和泉正俊さんという、
一人の芸術家に会って、
直接話して、本当によかったと思います。

それは、彼が
とっても、
穏やかで、誠実で、優しい、
雰囲気を強烈に持っているのに、

「やりたいことしか、やりません。」

という事を同じぐらい強烈に無言で、発していたからです。

僕は、不機嫌な顔もしてないと、
やりたいことって、
できないって、思ってました。

そうでもないみたいです。

とにかく、どうなるかわかりませんが、
僕の意見もしっかり言って、
栄福寺にも“正直なメディア”を作りたいと思ってます。

では。
明日は、石の産地、牟礼(むれ)に行って、
和泉さんとイサム・ノグチの作品に触れてきます。

ミッセイ

2002-07-07-SUN

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