坊さん。
57番札所24歳住職7転8起の日々。

第63回 OLD OR NEW?

ほぼにちは。

ミッセイです。

かなり年齢の離れた、
人とお話しする機会の多い
“坊さん”の僕にとって、

今、行われてる
ワールドカップは
貴重な雑談ネタです。

でも、この前の法事の時、

「おっさん、
 フリーガン、来んかったねー。」

とか、

「ゴールデン・キーパーは
 なかなか男前!」

って、微妙に違うんだよなぁ。
まぁ、いいんですけどね。

「えっ、モーガン・フリーマン?」

と、映画好きの孫が言い出して、
ますます訳が・・・、というのはウソですが。

以前、この連載でもお話しした、
「文政12年(1839年)の台灯籠」
修復から帰ってきましたよ。



こんな感じになりました。
どうでしょう?

僕が最初に感じたのは、

「新品みたいにピカピカだ。」

家族の人やお坊さんの人達も、
だいたい同じ事を口にしました。
みんな、とても、うれしそう。

でも、僕の中で、これは
すこしネガティブな響きがありました。

「古い物が持つ、ほっこり感とか、
 説得力みたいなのがなぁ・・・。」

職人の人は、

「新品みたいになりますよ。」

って最初から言ってたので、
これは依頼した通りの仕上がりなんですが。

僕は高野山の「平成の大修理」で、
「根本大塔」(こんぽんだいとう)が
修復された時にも同じような
感覚を受けたのを思い出しました。

これは、多くの人が共通して持つ感覚です。

仏像なんかを新しく作る時にも
わざと、古めかしく作ったりすることが、あるからね。

これは、考えてみると難しい問題です。

修復の時、一つの理想として

「“創建当時”の状態を再現したい。」

という欲求や考えも、とても自然であると感じるからです。

でも、古めかしい塔や、仏像が
極彩色に彩られ、“創建当時”(に近い)の姿を
再び現した時の、“何かが失われた”感覚というのは、
正直に僕達の心に湧いてきます。

でも、意図的に新しい物を“古っぽく”作る
という考えにも、なんだか違和感があります。

単純に教義的に考えると、創建当時の状態が、
ベストだと考えるのが自然でしょう。

でもね、よく、宗教を語る上で
伝家の宝刀のように持ち出される

“厳密に教義的に言うと”

という言葉は、いくつかの場合
“民衆の欲求”に応えて、という側面が
根っこの部分にあることがあります。

偶像崇拝、呪術的修法、
多くの人が成仏できると説いた大乗仏教。

その多くが民衆、宗教者の

「こんなん、あったらいいな。」

という素朴な欲求に対して、
有能なストーリーテラーが
有効な物語を用意したんだと思います。

それは、ちっとも悪いことだとは思いません。
とても、自然だと考えます。

それはフィクションでもノンフィクションでもなく、
“宗教”って形で出てくるところが、
“醍醐味”だと僕は、思います。

だから、とっても装飾的であったり、
極彩色の宗教装置というものは、

「こんなんあったら、死んだ後、住んでみたいな。」

という素直な欲求と無関係ではないと、
僕は思うんです。
(全てではないですよ、もちろん。)

だから同じように、この現代の社会なかで、

「“古めかしいなにか”(感情、物質、雰囲気)
 に囲まれた状態」が、

一つの理想的な“異なった世界”として、
僕達を強烈に惹きつけるんじゃないかな、
って思います。

“なにが正しいか?”

は僕には、うまく言えないけれど、

“それだけの話じゃない”

とも、思います。

そして、僕の役割は
ここに挙げたみたいな、
生きる上での特別な感覚というのを、
出来るだけいっぱい、見つけて(実感して)
宗教や巡礼という物語に、
“うまく、のっける”
ことなのかなぁ、なんて思います。

そういった意味で、
トイレなんかは、
“今”に生きる、
僕やお遍路さんのストーリーを
高い割合で、
そしてユニークなスタイルで、
込められる、
数少ないチャンスかも。

って考えてるんです。

古い物、新しい物。

昔からあった感覚、
今にしかない想い。

みんなは、どんな風に考える?

ミッセイ

2002-07-02-TUE

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