坊さん。
57番札所24歳住職7転8起の日々。

第55回 
“シェア ウォーター”というコンセプトのトイレ


ほぼにちは!

密成です。

この前行ってきた法事は、
僕が初めて経験する種類の法事でした。

“「親族」じゃない人”の法事だったんです。

考えてみるとみんなも経験ないんじゃない?

じゃあ、誰の法事かというと
「お遍路さん」の法事でした。

そのお宅は昔「遍路宿」をやっていて、

「ずっと前の人なので、よくわからないけど、
 宿で亡くなった、放浪のお遍路さんらしい。」

と、言っておられました。

過去帳にも
(お遍路)
という記載があるので、そうでしょうね。

四国らしい
いい気持ちの法事でしたよ。


今日は再びトイレの話です。

ぼんやりと、ずっと考えてたんです。

前にも書いたけどみんなから、もらったメールで
気になっていた意見がありました。

「洋式便所は、知らない、いろんな人と
 間接的に肌が触れ合うので、遠慮することが多い。」

という意見です。多かったんです。とても。

この意見をいっぱい読んでね、
僕自身も、そう感じることが多いので
えらそうなこは、言えないんですが、

「なんか、ちょっとヘン。」

な感覚を感じたんです。
100パーセントは否定できない。
いやっ、もしかしたら、
50パーセントも否定できないかもしれない。
でも、それが、“正しいこと”“自然なこと”
に繋がる話かといえば、
「どうやら、そうでもなさそうだ、ムムム。」
と弟子・密成は愚考したわけです。細心の注意で。

もちろん僕が、百貨店や駅なんかの
トイレ担当者であれば
“今そこにある快適”
を選択して、素直にこの意見を受けいれるでしょう。

でも
お寺って
「なにがホントに大切か?」

「視点を変えて、考えてみてもいいじゃん。」

提案することが許されているメディアだ、
と僕は考えています。
それはすごく貴重だともね。
“僕たちが掴むべき快適”を模索する感じ。

でも、その
僕の中でも明確でないメッセージを
「そんなこと言わずに、洋式使えよ。」
とストレートに出してしまうのは、
僕のやり方じゃないし、
いい方法でもないと思う。

という風に感じていました。

そして
僕はある小さなホテルの写真に、出会ったんです。

そのホテルは
客室の入り口が円い“池”を
取り囲むように配置されたホテルでした。

それはとても幻想的で
心静かにワクワクするような風景でした。

「・・・!、“シェア ウォーター”だ。」

というアイデアが、僕の頭を駆けめぐりました。

つまりトイレの建物の中央に
建物の大きさからすると
不釣り合いなくらい大きな石の
「手洗い」を配置して

その大きな石の中の水を
トイレを使った、ほとんどがの人が
“共有”して“わけあって”使う。

というアイデアです。

「手洗いなんて、たいがいの
 お寺や神社にあるじゃない。」

確かにそうです。
栄福寺にもある。

でもね、
僕は、
「石の中にある水の、圧倒的、美しさ。」
とか
「“わけあう”ということ。」
に対して、“気付く”ことを
少しでもアシストできる可能性があるとしたら、

違う方法でも“再考”したい。
と思ってます。

手洗いに使う石は、
石の自然な感じを活かしたオリジナルがいいと思います。

石の作家で僕が想うのは、
香川県の牟礼(むれ)に晩年のアトリエを構えていた
彫刻家
イサム・ノグチです。
一般には和紙を使った照明器具『あかり』
で有名な人ですね。

彼の20年来のパートナーの
石刻家 和泉正俊(いずみ・まさとし)さんの作品を
雑誌で観たのを、記憶していた僕は、
彼の公式ホームページを訪れました。

そこに載せられた石の作品の
1つにはこんな名前が。

『水のよろこび』

石にあけられた小さな穴に
ポツンと水が配置されています。

「こんな人、作品と
 “思い”が共有できたらなー。」

と心底ワクワクしました。

作品が直接観たくなって
牟礼の事務所にさっき、直接電話してしまった。
でもサンフランシスコや札幌でしか作品は
一般には、観られないらしいです。

もしも。

もしも、だよ、実現するなんてことがあったら
照明は『あかり』に照らして欲しいな。

仏教や密教が本当に大事にする
師資相伝(ししそうでん、
     法が師から弟子へと受け継がれること)
って言葉そのものだよね。

みんなも目を閉じて
今、しゃべったトイレ想像してみてよ。
いいと思わない?

無様でもいいから、とにかく、動いてみます。

ミッセイ

2002-05-12-SUN

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