坊さん。
57番札所24歳住職7転8起の日々。

第24回 生きる事への“モチベーション”

ほぼにちは

密成です。

今日と明日は法事があるのに
風邪を引いてしまったみたいです。

今日の方はなんとか終わりましたが

頭がぼーっとして法話の時
「僕の考える仏教の素敵なメッセージ」について
延々と10分以上話していたみたいです。

帰ってきて
母親に「長かったね」と言われるまで、
ぜんぜん気付かなかった。

風邪を引いてる時って
余計な事が考えられないから
妙に頭がクリアになってると
感じることが、ないですか?

たぶん錯覚なんでしょうが。

そんなわけで、今日は、なんとなく

「生きる事へのモチベーション」

ってことを考えてました。

最近よく考えるんです。

“生きる目的ってなんだろう?”

学術的な話じゃないです。

たぶん哲学的な話でもないです。

申し訳ないけど宗教的な話でもない。

でも、お葬式で少しの時間ではあるけど
人の“死”ということに触れる機会が
多いので、そういうことを思ったのかもしれない。

じいちゃんに、じんわり、そして、確実に
忍び寄って来る“死”を見てきたから、かもしれない。

テレビや新聞なんかのメディアが
僕たちの世代のモチベーションの低さについて
よく、伝えてくれるよね。

「根気がない」「フリーターが多い」
「気合いが感じられない」

そういうのって
割に僕の中では簡単に想像できていて
つまり一番簡単に「モチベーション」を掴みやすいのは
「食べられない」事なんじゃないかな?

「食べられない人」は「食べたい」って思うよね?

そして
「食べられるようになった人」は
「食べ続けていたい」って思うよね、普通。

それってかなり、巨大なモチベーションなんじゃないかな?

だから、僕たちの世代。

つまり「おまんまに、ガキの時から、苦労してない。」

世代の中でモチベーションが低くなってしまう
(あるいはそういう風に見えてるだけかも)
のは想像しやすいかもしれない。

「食べられない」時代に
精神的な対象に枯渇感を感じた人の一部が
宗教家になったんでしょうね。

そして、今
何かに対して
枯渇感を感じていて「オレならこうする!」
って強く感じた人は

モチベーションが高いんでしょうね。

その人達は何らかの“表現”に向かい合って
苦しみと快感を得ています。

それは、企業であったり、アートであったり
宗教であったり、格闘技であったり。

でも
そういった人達だけが
「幸福」かと言われれば、そうでもなく。

きっとその事は、当人達がよく知ってます。

これは“性”(さが)みたいなもんかもしれない。

僕自身

枯渇感を感じますか?

と聞かれると

「そう感じる事もあります。」

「そう感じる日もあります。」

「でもだいたい毎日、なんとなく、生きてそう、オレ。」

と正直に答えます。

大きく人間を二つに分けると

「モチベーションの低いグループ」かも知れない。

“いちぬけた”したくって、もがいてる日もあるけど。

どうすればいいんだろうね、僕たち。

でもね、ヒントは「ニタニタ」と
「じんわり」にある気がしてるんだ。

「ニタニタ」ってのはね、僕で言うと、
初めてフリーペーパーを
作って完成品をみんなで、回し読みした時もそうだなぁ。

「大好きな女の子」を考える時だって「ニタニタ」です。

「じんわり」っていうのは、うまくいえないけど
例えば僕なら

雨上がりの快晴の朝、キラキラ光る水田を観て

「生きてること、ALL OKよ!」って思えた事とか

季節はずれの打ち上げ花火をコンビニで買ってきて
海岸で打ち上げて

「少し寂しくなれた」ことなんかです。

「坊さん」で書いた「初めて行ったお葬式」もそうだね。

そんな「ニタニタ」や「じんわり」を
僕たち、なんとか、集めて、寄せて、
生きて行くんじゃないかな。

よく歌詞、なんかで

「いつか、夢見た、あの日まで」とか

「全てを、手にする、瞬間まで」なんてのを、見ますが

そんな「ゴール」なんてないんだって、ことを
何となく感じながら

「ニタニタ」「じんわり」を探すフェスティバル
(レースじゃないんだろうなぁ)
に参加したいと思っています。

それは、誰にとっても、楽な闘いじゃなく
(レースなのかなぁ?結局。)

苦しいだけでもないんだろうな。

僕は「坊さん」です。

でも「仏教からのメッセージ」だけじゃなくて
“今”ってモンを大きく吸い込んで

「僕が掴んだことを」

「僕の言葉で」

話そうと思います。
それがチープな一般論であったとしてもね。


ミッセイ
(アユムかな?今日の原稿書いたのは。)

2002-02-03-SUN

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