坊さん。
57番札所24歳住職7転8起の日々。

第10回 高野山大学ソフトテニス部の頃

ほぼにちは。

密成です。

先日ひさしぶりに

高野山に行って来ました。
(住職任命式というのがあって、
 正式に住職になってきました。)

まだ卒業して
2年ぐらいなので
変に体が“街”を記憶していて

例えば煙草に火を付けると
(すいません、僕、今、喫煙者です。)

ちょうど
灰皿のあるところで
フィルターまで火が来るんですね。

そんなわけで高野山は
僕の体にいまだに
ぴったりと
染みついています。

僕は大学でソフトテニス部、華道部(華道高野山)、
茶道部に在籍していました。

後半の2個は
「女の子が多そう」だったからです。


あと「アーリークロス」という
有料フリーペーパー(なんだそりゃ)
を友達と作ったりしていました。

こんな風に書くと
「活発な大学生!」って感じですが、
あまりにも、やることがないので
友達と好きなことを
ダラダラやってただけです。

ただ、就職活動の履歴書や
面接なんかは、やりやすかったですね。

「はい。私は次男で跡を継ぐ必要はないのですが
 (ウソでした。すいません)
お寺に育ち興味があったので、
この大学に進学し首席で入学後
(何かの間違いでホント)
ありとあらゆる分野に興味を示し、活動し、
100日間の僧侶修行も達成しました。
私にとって大学は知的好奇心の“アミューズメント
パーク“であります。はい。」

うわっ、完全にやな奴ですね。

面接会場から出る頃には、完全に他の学生から

「この、資本主義坊主め」
ていう目で見られました。はは。

でも就職活動は公園で女の子とお弁当を食べて
情報交換したり楽しかったです。
(高野山は本当に女の子が少なかった。
 女の子のことしか考えてないのか!
 と思った人。
 自分の二十歳そこらを
 思い出してくださいね。
 僧も時に恋をします)

ソフトテニス部は結構変な思い出が多いです。

「ソフトテニス部キャプテン
 白川くん教務課まで来てください」

という放送があったので、行ってみたら

「今日は、クマ警報が出ているので活動禁止です」

と言われました。

クマ警報!

「ラケットケースに
 “鈴”を付けていっても無理ですか?」

「君、死にたいのかね?」

リーグ戦で大阪まで行くのも、すごく楽しみでした。
(ちなみに入れ替え戦に「OB」が出場しました。
坊主って年齢がわかりにくいんです。
みんなは、マネしないでね。)

「すごいぞ!白川君。大学の中にローソンがあるぅ」

「帰りは梅田で焼き肉、ヤキニク!」

などと猿のように、わめいていました。

しかし、僕たちのリーグには
異常に「教育大学」の人たちが多かったんですが
(奈良教育大学、京都教育大学、
 大阪教育大学、兵庫教育大学!!)

彼らのヤジは本当にすごかったですね。

「ボーサン、ボーサン、ボーサン倒せ!」

ほとんど“宗教弾圧”です。

しかもこちらは、正真正銘の「坊さん」です。

僕たちはもうほとんど、ヤケクソで
目の前で足をつった対戦相手を取り囲んで

「拝んだ。」

南海高野線の難波発高野山行きの
最終は9時30分でした。

だんだん人が減っていき
気が付くと3両編成の電車に
自分しか乗ってないこともありました。

ケーブルカーで山に登ると雪がちらついてる。

駅までバイクで来たことを
(黄色のスーパーカブに乗ってました)
後悔しながら、雪の山道を
とろとろ、注意深く走っていると
本当に寂しい気持ちになりました。

なんとなく、一人の部屋に帰りたくなくて
よく友達の家を経由して
煙草を2,3本分話して帰りました。

ほとんどの友達は、すぐ近くに住んでいたので
ありがたくもあり、時に、うっとうしくもありました。

「ねぇ、明日は、きっと積もってるよ」

友達と
「卒業したら、ケッコウ懐かしんだりするんだろうねぇ」

って、よく話してたけど

もう少し、時間がかかりそうです。


ミッセイ

2001-12-26-WED

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