坊さん。
57番札所24歳住職7転8起の日々。

第9回 
僕の信仰は物語を自分の中に受け入れること


ほぼにちは。

ミッセイです。

今日は僕にとっての「宗教」と「信仰」について
書きます。

おっと、クローズしないでね。

正直に書くから。

日本人は
信仰心がない国民だ
とか

いやっ、そうでもないぞ
とか
そういうのって
よく聞く議論だよね。

どうなんでしょうね?実際。
これは、おもしろい議論かもしれないし
そうでないかもしれません。
(なんの、こっちゃ)

僕がみんなに伝えられるのは

ひとつ
だけです。

そうです。僕という“リアル ケース”。

宗教を信仰するという行為に
違和感(あるいは嫌悪感)を感じる人の中に
こういう思いがあるんじゃないかな?

「だって、ウソじゃん!」

「大日如来も、お不動さんも、アミダニョライも、
 逢ったことないよ、俺」

「人が空を飛ぶはずないやん、エイヤッて言ったら
 水が出たって?おいおい!」

その辺に
「イヤーな感じ」というか「うさんくささ」
を受ける人も多いでしょ?

同世代の友達と話していても
その辺のニュアンスが伝わってきます。

僕も学生の頃
宗教の持つ「うさんくささ」の側面が
苦手でした。
(大学に「すいません、わたくし、
 ダルマの生まれ変わりなんですが。」
 と訪ねて来た人がいたりで。)

で、今、僕が

どういう風に思ってるかというと

宗教を信仰するということは

「物語を取り込む、そして、続きを綴る」

事だと認識しています。
(それが全てではないけれど)

みんなにも大切な“物語”ってあるでしょ?

それは
『もののけ姫』
だったり
『ドラエもん』
だったり
『ノルウェーの森』
だったり
『男はつらいよ』
だったりする訳じゃないですか。

それって全部

“フィクション”

のはずなのに
僕やあなたの、肉や血や涙になってるわけだよね。
絶対。

そんな所にヒントが隠されてるんじゃないかなぁー
と僕は思う訳なんです。

だって、いつの時代だって

小説家、詩人、映画人(監督、脚本家)、
演劇作家なんかは
死にものぐるいで
“フィクション”にこだわり
“物語”を語り続けてきたわけだよね?

“宗教”もそのストーリーのファンや読者が

「僕たちに語られるべき大切な何か」

を嗅ぎとって、きたんじゃないかって
感じるわけです。

つまり、宗教っていう
「感動巨編」だったり「ミステリー」だったりする
「往年の名作」の
“メッセージ”に僕たちは
もっと、敏感であってもいいと思うんです。

だって楽しいじゃん。
ストライクなメッセージがガーンって
飛び込んでくるのって。

ここで僕が使っている「物語」という言葉は

「宗教」を“ただの”ストーリー
だと言ってるわけではないよ。

巡礼や、瞑想、そこから得る直感

なんかの

実践、体感なんかも含めて

「物語」って、呼んでるわけです。

僕たちの人生だって

れっきとした「ノンフィクション」

だけど

「物語」でもあるよね。

そんな、感じしません?

そして
宗教は「続きを綴る」ことをしなきゃ
自分達の生活に
ナチュラルに(つまり、うさんくさく、なく)
入り込んでこないじゃないかな、と
思います。

とても勇気のいることですが
慎重にチャレンジすれば

それはきっと
おもしろいこと、たのしいこと、幸せなことに
繋がって来るんじゃないかと
思う訳なんです。

みんなは、どう思う?

ミッセイ

2001-12-24-MON

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