坊さん。
57番札所24歳住職7転8起の日々。

第3回「宮島 達男さんへのラブレター」

ほぼにちは

今回は僕の夢を書こうと思います。

漠然に言うと
お寺、あるいは信仰という“メディア”を
僕たちの手で自然な形で抱きしめたい。
ということです。

それには、どんな形があるのだろう。
ってことを、学生時代から何となく考えていました。

特に「四国遍路」という場所は
自分たちの意志で(これってすごい重要だよね)
お参りに来られる方が、年間何万人もいます。

もっと特別な感情を、
提供できるチャンスがあるんじゃないかって
思ったりします。

そんなある日、僕が、出会ったのが
(またまた、本屋で)宮島 達男さんの作品でした。
彼の作品は暗い部屋の中で
赤や、青の、発光ダイオードが
カウントを続けるというものです。
そして、そのコンセプトは

「それは永遠に続く」
「それは変化し続ける」
「それはあらゆるものと関係を結ぶ」 

という仏教の生命哲学から得た
メッセージだということです。
紙面からでもその作品が語ろうとする
圧倒的で、大切な“感情”は、ひしひしと
伝わってきました。

ほんとにすごいと思います。

僕はこれが“尊像”として
お寺のお堂にあったら
ほんとうに、ぴったりなものだと感じました。

もともと仏教でも、
偶像崇拝(仏像を拝んだり)という行為は
されていませんでした。

でも時代の過程で、
“実際に抱きしめられる存在”
としてそういうスタイルの信仰形態が
生まれてきたことを
僕は、自然なことだと思います。もちろん。

すこし歴史を見てみれば、わかることですが
宗教はその時代の風土、価値観によって
いろんな形に変化します。
(そう!それは変化し続ける)

だから宮島さんの作品のような存在が
自分たちの信仰のコンセプトを
強烈に共有する、確認作業の一つとして
お寺にあればすごく、
自然な信仰形態になるんじゃないかと思います。

カウンターカルチャーとしてでなく
共存カルチャーとして。

数年前に東京の大学院で
建築を学ぶ兄が
(在“ざい”っていう変わった名前の持ち主)

コイズミの国際学生照明デザインコンペで
日本人として7年ぶりに金賞を受賞しました。

その作品は、
光を放つ特殊なシューズをはいて歩くと
床のチップがそれに反応して光を数秒間放つ(保つ)
という作品でした。

立花ハジメさんとクラブなどでの可能性を話したそうです。

僕は真言宗のお坊さんが法会(ほうえ)で行う
中曲行堂(ちゅうきょく ぎょうどう)という
お経を唱えながらお堂の中をぐるぐると
歩く行為に参加可能なコンセプトが
この作品にはあると感じました。

もし
お経を唱える僧侶が
自分の宇宙観・生命観を表現するために
発光するシューズを
はいてたとしたら!!

それは自然かつ
とても、わくわくする行為ではないですか?

そんなことを、夢見ています。
いつか実現するといいなぁ。

欲望はいつでも、つき合いの難しいものだけど

素敵な欲望はみんなともっと、口に出して話し合いたい。

そう思ってます。

ここまでじっくり、読んでもらった人には
解ってもらえたと思うけれど
僕は今までの価値観を否定したいんじゃないです。

ただ自分たちの「続きを綴る」ことを
否定しては
せっかくの信仰というものが
自分たちのメディアにならないと感じています。

最近、四国遍路を撮られている
写真家の三好和義さんに、思い切って聞いてみました。

「お寺、遍路を撮りたいというのは、
 ノスタルジーなんですか?」

「それもあると思うよ。でもそれだけじゃないと思うよ。」

僕が表現したいのも、つまりそういうことです。

何年かかるかなぁ。

みんなはどう感じましたか?

では。

ミッセイ

2001-12-10-MON

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