バルセロナの人びとが重要視する
「3」という考えかたは、
どうもユダヤ教のカバラという、
一種の神秘的な哲学から
発生したと言われています。

生命の原理を捉えようとすると、
「2」ではなく「3」でなければなけない、
という考えかたが
古くから存在していたようなのです。

そのことを
意識的に勉強しはじめてみると、
1000年、2000年では
とてもきかないぐらい、
ふかい歴史的な根拠をもって
人間がそのことを考え続けてきた、
ということがわかってきました。

「2」の原理。
これは世界のあらゆるものごとを
情報や、計算できる価値に
つくりかえていくことができる。



そのためにはあらゆるものごとを
いったん「0」と「1」の組み合わせに
つくりかえてしまわなければなりませんから、
不合理な部分や、あるいは
記号の外から吹き上げてくる生命力など、
そういったものをぜんぶ、
切り捨てなければならない。

しかし、そうした「2」の原理で
できた世界というのは
「パワー」や「富のちから」を
持つことはできるけれども、
生命力の輝きとか喜びを
その原理のなかからつかみだすことは
できないということを、
バルセロナの古書店のおやじさんは、
語っていたのです。

僕にとっては、
とても刺激的な、啓示的な話でした。

そのような視線で
バルセロナの街を歩いてみると、
ピカソ美術館も、ホアン・ミロの美術館も、ダリも、
ガウディのサグラダファミリアのような建物も
すべてが「3」の原理でつらぬかれて、
バルセロナという都市そのものが
「3」の原理によって、
いま世界を覆おうとしている「2」の原理と
戦い続けてきたんだな、
ということが、実感されるようになったんです。

そうした体験をもとにして、僕は
『バルセロナ、秘数3』という本を書きました。

キリスト教の「三位一体モデル」では、
神とは「父」「子」「聖霊」という
みっつのペルソナからなっている、
ということが基本的な考えかたですけれども、
その奥底には
数字の「3」でできた思考の原理があって、
この思考法は
「2」の原理と徹底的に対立しあっている。

すでに申し上げたように、
「2」の原理というのは
情報化したり、
貨幣価値に換算したりすることによって
私たちの世界を
より理解しやすく、扱いやすいものにします。

ものごとを貨幣の価値で決めて、
交換可能な、
ひじょうに経済効率のいい世界を
つくりあげていくけれど、
それとは違う原理が
人間のなかにはたらいていないと、
わたしたちの世界は
輝きや喜びを失っていくのではないか。

古書店のおやじさんの話から、
このような考えかたが
じつにふかい歴史を
持っているのだということを
しだいに理解するようになっていったのです。

バルセロナへ出かけた翌年、
モスクワへ行く機会を得ました。

ソ連邦の崩壊を
まぢかに控えていた時期です。

街は、活気づいていると同時に
やはり大変な混乱のさなかにありました。

西ヨーロッパのさまざまな価値、
つまりジーパンやコカコーラなどが
旗印のようになって、
ロシア世界に
どっと入ってきていたころですね。

そのとき、そうした動きに対して
これはちょっと違うんじゃないかと
考えてる人たちに会って、話を聞きました。

そうしたら、その人たちも
バルセロナのおやじさんと同じように
「3」の原理のことを、話していたのです。

ロシアも西ヨーロッパも
キリスト教をベースにしていますけれど、
その人たちは、
ロシアの伝統的な考えかたは
西ヨーロッパの考えかたと
根本的な違いを持っているんだ、
と言っていました。

西ヨーロッパの世界は
カソリックのキリスト教であり、
そこでは、三位一体説にのっとって
いろいろなものごとが、動いている。

他方で、ロシアもロシア正教という
キリスト教の古い考えかたがベースにあり、
こちらでも、三位一体説で世界のできごとを
理解しようとしているんだけれども、
じつは、両者の「三位一体」の考えかたが
根本的に違うんだ、と言うのです。

そこで、僕自身、
キリスト教というものについて考えてみました。

そうしたら、
ロシア、東側の世界で発展したキリスト教と、
西側で発展したキリスト教のあいだには
なにか大きい違いがあって、
そしてそのことが
文明の違いや、精神性の違いを作っている。

そしてその違いの根幹には
どうも「三位一体」の理解のしかたの違いが
あるのではないか、ということが
しだいしだいに、わかってきたのです。



<つづきます>


2007-01-17-WED