ハードカバーの本が売れていくのって、 見ていてワクワクしてくるんですよ。

── 赤瀬川さんの新刊『大和魂』には
戦時中から
お米の通帳というものが配られて
それがないとお米を買えなかったという
お話が出てきますね。
赤瀬川 実質的に使われていたのは
60年代くらいまででしょうけどね。
── でも、最終的に廃止されたのが
1982年だと知って、
けっこう最近まであったんだなと
ちょっとビックリしました。
赤瀬川 戦後当時は、お札に貼るシールも配給制で、
それがないと、どんなに紙幣を持っていても
使えなかったんですよ。
── ようするに、
一定以上のお金を持っていても、
無駄というか、意味がなかったんですね。
赤瀬川 そうですね。

株やなんかの取引で
経済の上澄みだけがふくらんでいく
現代の日本からふりかえってみると、
おもしろいっちゃ、おもしろい時代でね。
── なんだか不思議な感じもします。
赤瀬川 でもまぁ、当時だって、いまだって
経済至上主義っていうのは、
いつの世にもあるんでしょうけどね。
── ええ。
赤瀬 でもそれが、現代の世界のように
ここまでくるとどうなのかとか、
どうすれば
もうすこしまともにできるのかとか、
そういうことは、
たぶんみんな感じてると思うんですよ。
── 勝ち組、負け組なんて言葉も
ふつうに使われるようになりました。
赤瀬川 で、この『三位一体モデル』を読んでみたら、
そういうことにたいする考えかたが、
すごく掴みやすく、納得しやすいかたちで
書いてあったんです。
── なぜ、西欧の資本主義のやりかたが
世界を覆ってしまいつつあるのか、とか‥‥。
赤瀬川 はい。最近は自分の身のまわりでも、
いい会社が、どんと
買収されていったりしていますし。
── いい会社、というのは?
赤瀬川 誠実な会社というか、まじめな会社。
そのまじめが消えちゃう。
会社を売り買いするっていう考えかたは
僕のなかにはなかったものですから
もう、ガックリきちゃっててね。
── 銀行の世界なんかは
名前がくるくる変わったりしてますよね。
赤瀬川 僕なんかからしてみると、
いったいなにをやってるのかなぁ、
という感じなんですよ。

赤瀬川 僕には経済というものが
よくわからないんだけど、
株を売ったり、
買い占めたりっていうことですよね、
いまの世のなかの
いちばん大きなやり取りは。
── ひとつには、そうですよね。
赤瀬川 で、株っていうのは、
よそでもあるのかなぁなんて
思ったりするんですね。
── よそというのは‥‥?
赤瀬川 地球以外のところとかね。

生命体が発達したら
だいたいは、同じような経路を
たどるんだと思うんですよ。
── そういうところにも
株はあるのか、と。
赤瀬川 生命体の社会ができると、
とうぜん経済というものが
出てくるだろうと思うんです。
── ええ、ええ。
赤瀬川 そうすると、株というものも
やはりそういう世界に
生まれるのかなっていうのがね、
もうずっと、
子どものころからの素朴な疑問。
── それほど、赤瀬川さんにとっては
わけのわからない存在だったんですか?
赤瀬川 うん、そうですね。

うまく納得できないんですよ、
株をめぐる経済の問題って。
── でも赤瀬川さんには
『ふしぎなお金』という著書もありますし、
なにより、千円札を模写した作品が
通貨模造と見なされたという
有名な「芸術裁判」のこともあって、
お金の問題に関しては、
いろいろお考えがあるように思うんですが‥‥。
赤瀬川 いや、お金はわかるんです。

やっぱり、苦労してますから。
ほしくてね(笑)。

でも、お金と経済とは、
ちょっと違いますからね。

── それは、どのようにでしょうか?
赤瀬川 そりゃ、まったく別ものって
ことではないんだろうけど、
お金って言ったときには、
身近で小額をやり取りする、
せいぜい月収ぐらい範囲の話でね。

つまり、年収だったりとか、
生涯賃金とかってなってくると
だんだん抽象的でわからなくなってくる。
── たしかに、株取引の
大きな単位のお金なんて、
ぜんぜん想像できません。
赤瀬川 でもやっぱりお金はほしいし、
そうすると、このお札さえあれば、
もうちょっと楽ができるのに、なんて思ったり。
で、自分のところにはそれがないわけで、
でも、あるところにはある。

「ぢっと手を見」たのは啄木ですけど、
僕は、ぢっとお札を見ちゃったんです(笑)。
── 千円札を芸術作品の主題にしようと
思われたのは、どうしてでしょう?
赤瀬川 そういう経済をめぐる自分の疑問というか、
なにか不可解なものから発して、
とにかくお金をモチーフにしようと思って
千円札を描いたり、印刷したりしたんですよ。

警視庁経由で起訴されたんですが‥‥。
ほんとうに単純素朴だったんですね。
悪いことに使うつもりじゃないんだし、
おこられるのは、おかしいなぁって。
── 悪意なんかないのになぜ、という。
赤瀬川 でも、警視庁に行って、
じゃあ取り調べだということで
地下室に降りていくと‥‥、
やっぱり怖かったですね。

これはたいへんなことなんだということに
そこでやっと気が付いたと言いますか。
── 当時は1960年代ですよね。
そのときに感じていた「お金」と、
現在、2006年の「お金」のあいだに、
なにか違いはありますか?
赤瀬川 そうですねえ‥‥感覚ですね。
お金に対する人間の感覚のほうが
違ってきてるんじゃないでしょうか。
── お金にたいする接しかた、
ということでしょうか?
赤瀬川 むかしはやはり、モノ中心でしたよ。
モノを得るためのお金、という感じでした。
── いまはお金でお金を増やす、
みたいなことにもなっていますものね。
赤瀬川 だから、むかしはもっと、
モラルや生きかたのほうが大きくて、
経済は、なんというか「オマケ」みたいな
ものだったと思うんです。
── むかしというのは‥‥?
赤瀬川 僕らが若いころ、子どものころですね。
── 戦中から、高度成長期くらいまで。
赤瀬川 うん、だから
そのころに「株をやってる」なんていうと、
なんだか怪しい目で見られたもんですよ。

ましてや「買収」なんて、
すごく品のない言葉だった。
金で動くということは
なにか、ものすごくきたないことでね。

── でも、だんだん、
そうもいってられなくなってきて‥‥。
赤瀬川 経済が膨張してきて、それにつれて、
モラルや内面的なちからで
持ちこたえてたものが
だんだん崩れてきてしまったというか、
お金のまえでは、
どうしようもなくなってきた。
それだけお金のちからが
ふくらんだということなんでしょうね。
── この「三位一体モデル」でいうと、
聖霊の部分が過剰に増殖するという‥‥。
赤瀬川 いや、だからこの本の最初のあたりの説明で、
そのことが、すごく、よくわかったんですよ。

ああ、そうか、納得できた、
という感じで、おもしろいなと思いましたね。

<つづきます>



2006-12-22-FRI