糸井重里の原稿からつくる、 1冊分のことばのかたまり。    小さいことばシリーズ最新作    羊どろぼう。  糸井重里   2011年2月22日(火) 注文受付開始。

糸井重里は、ほんとうに 「ことばがうまい」のだろうか?  ──編集者からのご挨拶。   永田泰大(ほぼ日刊イトイ新聞)
こんにちは。
ほぼ日刊イトイ新聞の永田です。
『羊どろぼう。』の編集を担当いたしました。

今年も、糸井重里の1年分の原稿と
ツイートをすべて読み返し、
それぞれをいったんたのしんでおいて、
こころに残る「小さいことば」を選び、
削りだし、切って、磨いて、並べて、直して、
ぎゅっと気持ちを集中して、1冊にしました。

そう、「小さいことば」シリーズ第5弾、
『羊どろぼう。』、できました。
もう、最後の印刷を待つばかりの状態です。

今年もこのうっとりするような作業を終え、
担当編集者として、ご挨拶させていただきます。

そして、この文章を
いまこうしてタイピングしながら自覚するのですが、
1年に1冊ずつ出る本の発売を機会に、
こうしてみなさまにご挨拶させていただくのは、
ぼくにとってはっきりとした楽しみであるのです。

なぜなら、これは、
糸井重里をおおっぴらにほめることのできる
かなりめずらしい機会だからです。

糸井重里の主宰する
「ほぼ日刊イトイ新聞」という場において
糸井重里本人を手放しでほめるということは
なかなかむつかしいことです。
そりゃぁ、当たり前のことです。
なぜというにそれはあまりにも
手前の味噌であり、自らの画の自賛であり、
我の田んぼに水を引いてくることが過ぎる。
ま、ようするに、ちょっとかっこわるいんですよね。

けれども、年に一度、1冊だけ出る
この「小さいことば」シリーズの発売を機会に、
担当編集者として、編集対象への興味や関心や
ちょっとした感動などを素直に申し述べることは、
眉をひそめる方が多少はいらっしゃるにしても、
おおむね、ある種の七夕的行為として
ゆるされるのではないか。
そんなふうに勝手に感じて
ぼくはこれをもう書きはじめているわけです。
つまり、天の川を渡る暴走通勤快速機関車は
すでにもう走り出しているのです。
つぎは織姫前、つぎは織姫前、
牽牛のみなさんはこちらでお降りください。

編集しているとしみじみ感じることが
いくつかあります。
たとえば世のひとは糸井重里を
「ことばのうまいひと」だと言う。
「ことばの達人」だとか
「ことばの魔術師」だとか
多少誤解を招きそうなものも含めて、
口々に「ことばがうまい」と言う。
けれども、しばしばぼくは思うのです。

糸井重里は、ほんとうに
「ことばがうまい」のだろうか?

わかりやすいところから切り崩していくと、
糸井重里は、豊富な語彙をもって、
なにかを表現することに長けているわけではありません。
知識や経験はたしかに豊富ですが、
その表現につかわれているのは
どちらかといえばやさしいことばばかり。
語彙の豊富さとは直接の関係はありませんが、
文章にひらがなが多いのもよく知られていることです。

とすれば、文章の構造がきれいなのでしょうか。
たしかに、日本語としてたいへん読みやすく
また、文体がよいリズムを持つことは知られています。
声に出しても、黙読しても、読みやすい。
けれども、いわゆる美文として、
まったく隙なく整えられているかというと
どうも違うような気がします。
隙のあるなしという観点からルーペをあてれば
それは、あちこちにあるような気がしますし、
詳しくいうと、あえて本人が残してる隙もあれば、
うっかりできちゃった隙も
そのまま残っているような気がします。

そもそも、糸井重里が文章をじっくり整えて
磨き上げてから世に出すひとではないということは、
そのライティングスタイルを見れば明らかです。
なにしろ、糸井重里は毎日原稿を書きます。
「ほぼ日刊イトイ新聞」という毎日更新のウェブサイトに
毎日コラムを書いているのですから、
そりゃぁ、もう、完全に毎日です。1年365日です。
それをもう、12年以上続けているのです。
おまけに、この本に収められていることばの
何割かはツイッターに書かれたものです。
ご存じのようにツイッターというのは
上限を140文字とする速報性を重んじるメディアです。
そのリアルタイムなメディアにことばを投じることが
美文をじっくり整えるということと
相反する方向性にあることは明らかです。

では、どうして、
糸井重里のことばはこころにのこるのか。
誰でも知ってるわかりやすいことばをつかい、
子どもにでも読めるひらがなばかりで、
美しく整えているわけでもないのに
どうして糸井重里のことばは
ぼくやあなたのこころに、
すっと染みこんだり、さくっと刺さったり、
ふわっと寄り添ったり、りんと響いたりするのか。
響いたり、撃ち抜いたり、あたためたり、
くすぐったり、きゅっとさせたりするのか。
ぼくは、こんなふうに考えるのです。

まず、前提として、
それはたんなる表現の巧みさのみに因るものではない。
糸井重里のことばが特別である理由を表すのに
糸井重里のことばをつかうというのもへんですが、
構造のマッチポンプに許しを乞いながら書くとすれば
糸井重里のことばはやはり枝葉であり、
その幹や根っこには、
糸井重里本人というユニークな沈黙がある。
門前の小僧が習わぬ巨人の思想の
孫引きをするようでたいへん恐縮です。

ああ、具体的にいかないと、
いくらでも書いてしまいそうですね。
ことばをひとつ、あげましょう。
あえて、極端なことばをひとつ。

つぎに挙げる糸井重里の短いことばは、
一見、ただの走り書きですが
(実際、走り書きであることは間違いありません)、
読んだとき、それははっきりと
ぼくのこころに響きました。
きっと、ぼくだけではなく、
何人かのこころを小さく撃ち抜いたでしょう。
もちろん、内容が内容ですから、
その威力をしみじみ吟味するひとは
ほとんどいなかったと思いますけれど。

さて、それはこんなことばです。


「ラーメン食べたい。がまんができない。」


‥‥いや、すいません、
だから、極端なことばだって言ったでしょう?

このことばは2010年8月26日午前11時21分、
すなわち夏のお昼前にツイッター上に記されました。
読んだ瞬間、ぼくは「むぅ」と短くうなり、
つぎの瞬間、ラーメン食べたい、と強く感じました。
共感したのです。共鳴したのです。
ツイッター上の反応を見るに、
全国の多くのひとがそう感じたようでした。
それが昼前だったから、
あるいはラーメンって大人気だから、
というばかりではないと思います。
なんというか、この、
「ラーメン食べたい。がまんができない。」
という表現には、
たいへん鋭いクオリティーがある。

むろん、中心にあるのは、
糸井重里本人のラーメンへの思いです。
湧き上がる彼の情熱をたしかに感じます。
そしてその情熱を糸井重里がことばにしたとき、
明らかに走り書きであるにもかかわらず、
その短いことばは読むひとのこころに
当人の情熱をたしかにデリバリーする。

「ラーメン食べたい。がまんができない。」
というこの表現には、ちからがある。

いったい、なぜか?

他者にとってはどうでもいいようなことを
生涯を掛けて追い求める
マッドでイグノーベルなトンデモ博士のようなつもりで、
ぼくなりの結論を具体的にお伝えしましょう。

ここでの品質のカギは「助詞の位置」にあります。
より具体的にいえば「が」の位置です。

「ラーメン食べたい。がまんができない。」

この文字列は、意味をほとんど変えずに、
以下のようにも表すことができます。

「ラーメンが食べたい。がまんできない。」

「ラーメンが食べたい。がまんができない。」

「ラーメン食べたい。がまんできない。」

──しかし、糸井重里は、こう書く。

「ラーメン食べたい。がまんができない。」

なぜ、糸井重里は、そう書いたのか。
落ち着いて、ますます具体的に向き合っていきましょう。
もう、ここまで読んでしまったのですから、
どうぞ最後までおつき合いください。
まずは前半。「ラーメン食べたい。」から。

その最初のフレーズにおいて
糸井重里は「が」という助詞を使いませんでした。
「ラーメンが食べたい。」ではなく、
「ラーメン食べたい。」と書いたわけです。
助詞のない口語的なその言い回しには、
とても本能的で、かつ動物的で、
さらにいえば反射的で右脳的な印象があります。
唐突な食欲に突き動かされたときの
やむにやまれぬ感じがありありと感じられます。
湧き上がった衝動を、考えることなく
そのまますっと発したような、
書き手の素直さのようなものも感じます。
それゆえ、その短いフレーズが頭をよぎったあとは、
ちょっとした切なさすら残るようにぼくは思うのですが、
それはちょっと個人的にすぎるかもしれません。
ともあれ。

「ラーメン食べたい。」

きっと多くの方がすでに連想されているように、
それは幾多の名曲で糸井重里とコンビをくんだ
矢野顕子さんの代表曲のタイトルでもあります。
おそらく、糸井重里と根本のところで
価値観を共有するであろう矢野顕子さんもまた、
そのやむにやまれぬ衝動を表現するときに
「が」という助詞がそぐわぬと感じたのでしょう。
矢野顕子さんのライブにおいて、
しばしばその助詞のないタイトルの曲は、
たいへん本能的に、動物的に、奏でられます。
「ラーメン食べたい」と、
助詞を略して矢野顕子さんが何度もくり返す歌と、
糸井重里が走り書きした「ラーメン食べたい。」は
ほぼ、同じものであるようにぼくは思います。

当該のことばに戻りましょう。
続く後半の文章で
糸井重里はこう書きます。

「がまんができない。」

一転、助詞はがっちりとそこに食い込んでいます。
するとどうでしょう、
文章にはっきりと別の要素が加わります。
理性です。
この後半の文章には、明らかに理性の痕跡がある。
湧き上がった衝動と理性が
一瞬、短く渡り合ったであろう
ということを想像させます。

おそらく、時刻がまだ昼前であることとか、
好みのラーメン屋さんが
自分の自宅の近くにはないこととか、
ほかに食べたいものがないわけじゃない
というようなこととか、
半年ほどの前からゆるやかに取り組んでいた
ダイエットとの兼ね合いとか、
こまごまとした対向要素が浮かんだのでしょう。

つまり書き手は、短く、あらがった。
しかし、刹那の逡巡のすえ、
糸井重里はこう結論づけるのです。

「がまんができない。」

「がまんできない」のではなく、
「がまん」が「できない」。

まず、湧き上がる強い衝動があり、
書き手はそこに安易に流されまいと
いくらか道を探ったが、
結果、それが「できない」と悟った。

「ラーメン食べたい。がまんができない。」

一方では略され、
一方では使用された「が」という助詞が、
ふたつの文章を対象的に際立たせ、
書き手のなかに生じた衝動と理性、
そしてその逡巡までも表現し、
さらにそこに全体の時間軸さえもそえて、
読み手の胸にわずか18文字の
パッケージとして届けるのです。

それを読んだ昼前のぼくが思わずうなり、
ラーメン食べたい、と思ったのも
無理からぬことといえるでしょう。
幸い、ぼくは糸井重里と近い関係にあったので、
読んですぐさまリアクションすることが可能でした。
具体的にいえば、
「糸井さん、ラーメン、つきあいますよ」と
それこそ衝動に突き動かされて
ダイレクト・メッセージを打ったのです。
けれども、そのメッセージは届きませんでした。

なぜなら、糸井重里は、そのときすでに
渋谷のラーメン屋に向かって移動していた。
だって、「がまん」が「できない」のだから!

そして、そのツイートから遅れること約40分、
午後12時5分に以下のツイートが流れる。
やはり、短い。


「ラーメン食べた。はやし!」


うーーーん、その衝動に、いつわりなし!
解説すると「はやし」というのは
渋谷の駅のところの坂道を上がってったところにある
たいへんおいしいラーメン屋さんである。
あと、この「ラーメン食べた。はやし!」というのは
経緯のオチとしては知らせたほうがいいと思ったので
ここに掲載したけれども、とくにこころにのこる
「小さいことば」だとは思わなかったので、
『羊どろぼう。』には載せませんでした。あしからず。

短いことばに長い長い解説を加えたこのあたりで、
ぼちぼちまとめに入らなければ、
職務にまっとうな係員の手により
ぼくはこの場から引きずり下ろされてしまうでしょう。

さてみなさん、食堂にお集まりのみなさん、
ぼくはこう思うのです。
どうぞもう少しだけ、食堂にいてください。
糸井重里のことばの秘密は、
彼を突き動かす衝動への「誠実さ」と
それを表すときに時間いっぱいまであきらめない
「しつこさ」にあるのではないかと
ぼくは思うのです。

みずからの衝動に誠実であろうとする場合、
そこにはある種の時間的制約が生じます。
だってそれは、時間が経つと、弱まったり、薄れたり、
なくなったり、変質したりしてしまう。
それをぎゅうと強い意識でもって封じ込めて、
後日、あらためてきちんと腑分けするという
才能を持つひともいるでしょう。
(小説家とは、そういうひとかもしれない)
けれども、糸井重里はタイプとしてもスタイルとしても、
その衝動をその場に残すことが多いひとである。
書くにせよ、しゃべるにせよ。

きっと、ことばがタイピングされる瞬間まで、
ことばが声帯を震わせるぎりぎりの瞬間まで、
糸井重里はしつこくあきらめずに道を探るのでしょう。
瞬間に、「が」を略したり、残したり、
比喩を重ねたり、ぼやかしたり、ズームアップしたり、
断定したり、笑わせたりするのでしょう。
それは、ロジカルなトライ&エラーのようなものではなく、
きわめて、咄嗟の振る舞いとして。

まず、貫く衝動があり、
それを受け入れる素直さがあり、
そのよろこびや驚きや発見を
ひとりでかみしめるだけではさみしいと感じる
センチメンタルがあり、
伝えようとするときにぎりぎりまで粘って
道を探ろうとするしつこさがあり、
それらぜんぶが咄嗟の表現として表れる。

それが、「糸井重里のことば」なのではないかと、
ぼくは思うのです。

この『羊どろぼう。』という本には
227個の「小さいことば」が収められています。
きっと、あなたのこころにのこることばが
いくつもあると思います。
どうぞ、のんびりとページを繰って、
227個のことばと向き合い、
あなたのこころにのこる
「小さいことば」と出会ってください。

そして、もしもじかんがゆったりとあるならば、
それがなぜあなたのこころに残るのかを
じっくり考えてみるのも、いいかもしれません。

もちろん、正解なんてないんですけど、
それは、とってもぜいたくで、
たのしい時間であるはずです。

いや、もちろん、ラーメンのことばひとつで
ここまで考え込まなくてもいいんですけどね。

気づけば今年もこんなに長く書きました。
後悔のない本が今年も出ていこうとしています。
毎年、思うことは同じです。
どうぞ、この本がひとりでも
多くのひとに出会いますように。

買ってくださいと胸を張って言います。

2011年2月

とじる