月と六ペンス
ウィリアム・サマセット・モーム


── これは、意外なチョイスですね。
磯野 そうかもしれません。
── だって昔の小説ですよね、この本?
磯野 ええ、サマセット・モームという人が書いた
空前のベストセラー。

のちに、映画化もされた古典的作品ですね。
── 一見して「はたらく」とは
あんまり関係ないような気がしますけど‥‥。
磯野 書店員という仕事をやっていると、
「いままで、
 いちばん感動した本は何ですか?」って
よく、質問されるんです。

そのとき、
いつも紹介しているのが、この本で。
── ほう。
磯野 本が好きで書店員になったわけですから、
本を読んで感動したり、
「ああ、よかったな」って思ったことは
もちろん、何度もあるんです。

でも‥‥なんというか「鳥肌が立った」のは、
この作品を読んだとき、ただ一度だけでした。
── へぇー‥‥本を読んで鳥肌が立つなんて、
めったにないことですよね。
磯野 南太平洋のタヒチ島で絵を描き続けたこととか
ゴッホとの共同生活なんかで有名な
フランス印象派の画家、
ゴーギャンをモデルにしたストーリーなんです。

絵描きである主人公が、
家族、友人、お金‥‥などなどのうち、
何をたいせつにして生きていくのか、というお話で。
── 何をたいせつに、ですか。
磯野 そう、『はたらきたい。』のテーマと重なるでしょう?
だから、この本を選んだんですよ。

物語のなかで、主人公は、
「やっぱり、絵を描いて生きていこう」と決めて、
友人や、お金や、自分の家族まで捨てて、
絵を描くということに、のめり込んでいくんです。

その生きかたには
賛否両論あるとは思いますけれど、
僕には到底できないことですし、
なんだか、すごくこころを揺さぶられて‥‥。

この本との出会いがなかったから、
いま書店員をやってないかもしれないってくらい。
── うわ、それは、すごい1冊ですね!

磯野さんの人生を決めたといっても
過言ではないというか‥‥。
磯野 でも、『はたらきたい。』が
そういう本になるって人、いると思うんです。
── ああ、そうかもしれないですね。
磯野 『はたらきたい。』を読んだ人のなかに、
僕が『月と六ペンス』を読んだときの
「揺さぶられかた」と
同じような感覚を経験する人って、いると思うんですよ。
── ははあ、なるほどー。だから横に。
磯野 そう、ならべたいと思ったんです。

このふたつの本は、ジャンルこそ違えど、
読後感というか‥‥
本から醸し出されるものが、よく似てる。

実際にお店でも、ならべていましたし。
── なるほど‥‥そうですか。
こんど、読んでみたいと思います。
磯野 ええ、ぜひ。おもしろいですよ。
── それじゃあ、今、書店員さんとして
はたらいてらっしゃるわけですけれど、
磯野さんご自身が
「たいせつにしていること」って
なにか言葉になってますか?
磯野 ああ‥‥そのことについては
『はたらきたい。』を読み進めながら、
ずっと考えていたんですけど‥‥。
── なんだか、わかりました?
磯野 どんな仕事も同じだと思うんですけど、
自分ひとりだけのちからでできることって
たかが知れてると思うんですね。

われわれ本屋という仕事についていうと、
「アルバイトさんのちから」が、
ものすごく大きいんです。
── アルバイトさんのちから、ですか。

なんというか、それって、
なかなか言えない言葉だと思うんですけど。
磯野 アルバイトさんのちから、すごいです。

それは「チームでやる仕事のすごさ」とも
表現できると思うんですけど。
── ああ、なるほど。

すごさとは、つまり「おもしろさ」とも
言えるものですよね。
磯野 そう、そう、アルバイトさんのおかげで、
おもしろいって思える。

このルミネ横浜店の場合ですと、
店長を入れて、社員が10人前後いるんです。
それにたいして、
アルバイトさんの数は50人から60人。
── そんなにいらっしゃる。
磯野 アルバイトのみんなと仕事をしていると、
彼がいなきゃ
できなかったよなぁってこととか、
彼女の工夫で、
店がよくなったなぁってことが、
日々、骨身に染みて実感できるんですよ。

この人たちとはたらけて、
よかったなぁって、思えるというかね。
── へぇ‥‥。
磯野 で、そのアルバイトさんたちに、
気持ちよく、楽しくはたらいてもらうために、
みんなを束ねる立場にいる自分は、
何をたいせつにしなければならないか‥‥。

そう考えたとき、
自分の場合は「想像力」と「実行力」だな、と。
── 具体的にいうと?
磯野 たとえば、あのアルバイトさん、
もしかして、体調が悪いんじゃないかとか、
逆に、今日は絶好調みたいだぞってことを、
つねに気にかけて、
必要がありそうなら、ちょっと話しかけてあげたり‥‥
それが、想像力ということなんです。
── なるほど。
磯野 そして、実行力というのは、
何か、問題がありそうなときに、
それを先送りにせず、
そのつど解決策を話し合って改善するということ。

それは、自分のためじゃなくて、
まず、いっしょにはたらいてる人たちにとって
たいせつなことでもある気がして。
── それって結局のところ、
お客さんのためにもいいことですよね。
磯野 そこに繋がっていったら、うれしいですね。

お店のスタッフには
すこしでも楽しくはたらいてほしいですし、
みんながイキイキとしているほうが、
結果的に、お店の雰囲気もよくなりますから。
── 今、磯野さんがはたらいていて
うれしいのって、どんなときですか?
磯野 書店員になりたてのころは、
自分の担当の棚から本が売れていくことが、
それこそもう、
一冊一冊、うれしかったんですよ。
── 書店員さんとお話しすると、
みなさん、かならず、そういいますよね。

本が売れるのがうれしいんですって。
磯野 本が好きで本屋になったんであれば、
当然のことだと思います。

でも今は、いっしょにはたらいている
アルバイトさんが、
自分の想像力をはたらかせて、
教えなかったことを、やってくれたときとか。
── やっぱり、仲間のことなんですね。
磯野 僕が気づかなかったことに
気づいてくれたりしたときのほうが
ぜんぜん、うれしくなりました。
── ははぁ。
磯野 しかも、期待に応えてくれるだけでなく、
僕の予想をうわまわる日さえ、あるんです。

そういうときはね、
本当に、涙が出るぐらいうれしいんですよ!
── そんなに!
磯野 自分、なんだか、熱くるしいですかね‥‥。
── いやいや、ぜんぜんそんなことないです。
磯野 ヘンなこと言ってないですかね‥‥自分。
── むしろ楽しそうで、うらやましいですよ。
磯野 よかった(笑)。

プロとして仕事をしてるわけですから、
当然、きびしい面もありますし、
つらいことや泣きたくなるようなことも
ありますけれど、
本屋という仕事はやっぱり、楽しいですね。
── 磯野さんを見てたら、わかります。
磯野 ああ、そうそう、
『はたらきたい。』を読んで、
わかったことが、もうひとつありまして。
── それは?
磯野 うまくいかないことや、
なんだかんだと不満はあったとしても‥‥。

それでもやっぱり、
ぼくは「本屋ではたらきたい」んだなぁってこと。
── 仲間と。
磯野 そう、そのことがね、あらためてわかったんです。


015
わたしは、ずっと前から、
自分が誰かと仕事をしたら
「次もあいつと仕事がしたい」と言わせよう、
というのがモットーだったんです。
岩田聡(任天堂株式会社代表取締役社長)
『はたらきたい。』所収
 「100のことば」より抜粋(p47)

次回の更新は11月23日(日)となります。
ブックファーストの
林香公子さんにご登場いただきます。


2008-11-16-SUN



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