この「言いまつがい」はなぜ起こるのか? ケース1「慣用句」  「馬車馬のように働く」と言いたかったのに、 「狛犬のように働く」‥‥。 じっと座ってるだけかい、仕事しろよ私。 (harutomo) 〜『金の言いまつがい』15ページより〜




ことばは、時代とともに移り変わるものですから、
昔は使われていたけれどもいまは使われなくなった、
ということばがたくさんあります。
ことばとしては残っているけれども、
そのもの自体が身の回りから姿を消している
という場合もありますよね。

たとえば、私たちの身の回りから
「火鉢」は姿を消しましたけど、
ことばとしてはまだしっかりと残っています。
ものが消えても、ことばだけは残っていたり、
海外から新しいものやことばが入ってきたり‥‥。
ことばというものはどんどん移り変わるんです。

一方で、人は無限に
ことばを覚えていられるわけではありません。
単語ひとつとってみても、そこに含まれる
情報の量というのはそうとうなものがあります。

たとえば「コーヒー」ということばがあるとします。
そこには、意味はもちろん、
絵としての情報や、飲んだときの味覚、
コーヒーをめぐる動画としての映像など、
あらゆるものが情報として含まれています。
コンピューターでいえば、ことばというのは
「大きな容量を必要とする」ものなのです。

人間の脳というのはたいへん優れた器官ですが、
無限に容量があるわけではありません。
ですから、ひとつひとつの容量が大きなことばを
無限に覚えていられるわけではないのです。

それで、この「言いまつがい」の例ですが、
「馬車馬」というのも「狛犬」というのも、
私たちの身の回りによくあるものではありませんから、
単語としては知っていても、画像や体験としての意味は
薄れてしまっていることばなんですね。
それで、間違えやすくなってしまう。
つまり、「同じようなあやふやなことば」として
その人の中に蓄積されているので、
つい「選び間違えて」しまうわけですね。

ことばは、記憶や体験と結びついて、
はじめてしっかりと自分のものとなり、
使いこなすことができるようになります。
身の回りになくなったものが
ことわざや慣用句の中にのみ、残っているような場合は、
それを間違えてしまうことも珍しくないと思います。


ことばは、ひとつひとつにたくさんの情報を含んでいる。 ・身の回りから姿を消したものは  それがことばとして残っていても間違いやすい。


2007-04-13-FRI



(C)HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN