今年、みなさまにお届けする、この本が、
「小さいことば」シリーズのなかで
特別な1冊になることはわかっていました。

ご存じのように、このシリーズは、
糸井重里の1年分の原稿とツイートをもとにしています。
つまり、この『夜は、待っている。』という本は、
2011年の糸井のことばを選り抜いて編んだものです。

2011年は、震災のあった年でした。

3月11日以降、糸井重里が表すことばは、
やはり、それに大きく影響されました。
とりわけその日から半年ほどは、
震災を感じさせない原稿が
書かれることが稀であるほどでした。

このシリーズの編集を毎年担当しているぼくは、
のちにまとめることになる本のことを
いつも念頭に置きながら
日々の糸井の原稿を読んでいる、
というわけではありません。
けれども、日々、震災をテーマにした原稿や
ツイートを読むにつけ、
今年の本は特別な1冊になるだろうな、と感じました。
正直にいえば、ちょっと不安でもありました。

いえ、震災について書かれたものが
編集するときに好ましくないというわけでは
まったくありません。
ぼくが少々心配したのは、
その日以降、糸井にかぎらず多くの書き手が、
その原稿を「誰がどんなふうに受け止めるか」を
それまでの何倍も気にしながら
書かざるをえなかったということです。

あの日以降、好むと好まざるにかかわらず、
日本で書かれる日常的な文章の多くは、
震災という共通のテーマを持つことになりました。
議論に参加するつもりはまったくなくても、
そういう目で読んでいる人によって
テキストは書き手の思惑を外れて
ある論調の一部へ勝手にエントリーされることを
覚悟しなければならなくなったのです。

それで、多くの常識ある書き手は、
「誤解のないように」書くこととなりました。
もちろん、震災の前だって
「誤解のないように」書いていたわけですが、
率直にいって比ではないでしょう。

当事者がそれを読むこともある。
当事者を気遣う人がそれを読むこともある。
全体の方向性としては同意見でも
一部の表現が許せない人がいる。
それについて述べること自体を
許せないという人もいる。
はなから先入観のある人が
尻尾をつかもうとして読むこともある。
書き手自身が誤解していることもある。

なにしろ、いつも以上になにがあるかわからないから、
いつも以上に、誤解のないようにと気を遣う。

もともと、糸井重里は、
そういった議論から積極的に遠ざかる人です。
逃避ではなく、現実と向き合うためにも、
なんにも生まないディベートのようなものに
費やしている時間はないと考える人です。
(ああ、こう書いているいまだって、
 ぼくですら、気を遣っている)

結果的に、糸井重里が日々書く原稿から、
それまでにあった「散文性」は
幾分失われることとなった、とぼくは感じています。
そして、それ自体はまったく間違ってないのです。
ただ、2011年3月11日以降の原稿、
とりわけその直後から数ヵ月間の原稿は、
それ以前とやはりおもむきが異なる。

仮に、以前の原稿が、糸井の興味のままに、
深く掘り下げたり浅く移ろったりしながら、
さまざまな料理をつまんではお皿に盛る
ビュッフェ形式の朝食のようなものだったとすると、
震災以降の糸井の原稿は、
ただひとつを言うために、
あちこちの方向からぐるりと検証して、
誤解のないよう前提からスタートし、
おしまいにニュアンスを整えるという、
メインディッシュを軸に据えた
コース料理のようになっていきました。

毎年、ここに書かれる原稿特有の
「ファン目線」を許されるのであれば、
それはもう、ちょっと不憫だなと
感じられるようなものでした。

なにしろ、
少なくともこれだけは言える、という
ごくシンプルなことだけを表すために、
たいへん気を遣いながら表現し、
やれやれようやく誤解のないように
バランスよく慎重に書けたと思ったら、
「さすがことばのプロですねぇ」とか、
「どうしてあれについて書かないのです」とか、
もう一回り大きな無理解に直面する、
というような状態でしたから。

あの日から1年が過ぎて、
すでにぼくらは記憶を上書きしかけていますが、
2011年に、不特定多数に向けて、
糸井重里にかぎらず、ある程度影響力のある人が
なにかを表すというのは、
それほど、ぴりぴりとしたことだったのです。
そう、ぼく自身がそれを忘れないためにも、
きちんと書いておこう。

去年、365日、休まず原稿を書くというのは
たいへんなことだった。

話をゆっくり戻すと、
ぼくはのちに編む本のことを考えるときに、
震災についてのパートを分けた
分冊形式の出版もあり得るのかなと思いました。
というのも、なんというか、
書かれたいずれのことばも
ウソではないのだけれど、
繊細な気遣いで幾重にもくるまれた部分と、
くちずさむように軽やかに書かれた部分が
違和感なく並べられるかどうか、
心配だったのです。

たとえば、去年糸井重里が書いたなかで、
ぼくがどうしようもなく重いと感じる
ひとつのことばがあります。
4月のある日、糸井がツイッター上に表した、
こういうことばです。

「いちど、この問題については黙ります。」

ある、なんでもない簡単な感想が、
思わぬ方向から意見され、
やり取りがあり、
誰かが決定的におかしいというわけでもなく、
話が少し広がって、おさまりかけて、
それでも完全に解決したわけでもなくて、
そのあたりで、絞り出すように、
糸井が書いたひとことが、それでした。

ただひとつのわかりやすい正しさがあって
みながそれを全肯定して
同じようにうなずくことなんて、ない。
2011年に日本を襲った震災は、
その当たり前のことをあらためてぼくらに
突きつけたように思います。
しかし、その前提にすら、人が揃うことはない。

自分の都合のよい領域だけを区切って
そこに限定的に君臨したり、
とことんやり合うということ自体を目的にして
ある種の見せ物として振る舞ったり、
ということはできるのかもしれませんが、
それは関わる人たちを疲弊させるだけで、
なにも生みださない。

かといって無視することが最良なわけでもない。
かたちばかりの謝罪でお茶を濁すのも違う。
しかも、うっかり放置しておくと新たな誤解が広がるし、
わざわざその誤解を観に来る野次馬も出てくる。

そんな、先の見えない混乱のはじまりにおいて、
糸井がどうしようもなく表したひと言が、
「いちど、この問題については黙ります。」でした。

黙ります、とあえて言わなければならない複雑さと、
さまざまな方面へ向けられた気遣い、
そして、わずかだけれどたしかに感じられる
「無念」のようなもの。
「ファン目線」の発言として許されるならば、
ぼくはそれを読んで、
「ちょっと泣ける」のです。

今年も、本をつくるにあたり、
すべての原稿とすべてのツイートを読み返しました。
思った以上に、「ちょっと泣ける」ことばが多く、
どうしても作業は深夜になりました。

ですから、糸井に限らず、
たくさんの真摯な書き手のみなさんに敬意を表して
もう一度くり返しますけれども、
2011年という1年間に、
一日も休まず原稿を書くというのは、
ほんとうにたいへんなことだったのです。

そういう、絞り出すような、
「ちょっと泣ける」ことばを
どう扱うべきかとぼくは
本づくりのはじまりに迷いました。
もっと具体的にいうと、
その特別なことばに──

「『すし』を思うほどに、
 友情を思えるだろうか、わたしよ。」とか、

「カニクイザルのあいさつは
 『カニ、食ってるかい?』ですが」とか、

「おい、みんな。
 しょこたんくらい好奇心を持って、
 しょこたんくらい努力して、
 しょこたんくらい楽しんで、
 しょこたんくらい堂々とやれよ」とか、

そういうことばを並べられるのかなと
ぼくは、心配したわけです。

けれども、ここまで読んでくださった方は
(とりわけ、糸井重里のファンは)
とっくにおわかりかと思いますが、
それらのことばは、やはり、
1冊の中に並べられるべきでした。
気遣いでくるまれた複雑で重いことばも、
思わず吹き出すようなおかしいことばも、
「どういうこと?」ときょとんとするようなことばも、
同じ場所に居合わせて正しかったのです。

なぜなら、さまざまな印象を持つ、
多種多様なことばを、
乱暴でもくっつけて並べたほうが、
より糸井重里本人に近づくからです。
仕上がったいまとなっては
当たり前のことと理解できます。
けれど、実際にくっつけて並べてみるまでは、
その乱暴さに少々たじろいだのです。

そういう意味でいえば、
この『夜は、待っている。』という
本の振り幅というのは、そうとうなものです。
ここは本を宣伝するページですから照れずに言うと、
その意味で、この『夜は、待っている。』という本は、
とても豊かなのです。

ことばからはじまり、
ことばを集めて並べるという以外なく、
紛れもなくことばの本なのですが、
そういうことをすっかり忘れてしまうほどに
この本は、豊かな本に仕上がりました。

きっと、最後までたのしめると思います。
やはり、今年の本は特別な1冊になりました。

最後になりますが、
この本がどうまとまるのかと不安な時期に届いた
酒井駒子さんのすばらしい装画には、
ほんとうに励まされました。
糸井重里本人がつけた
『夜は、待っている。』というタイトルと、
そこにある暗さと希望を見事に表してくださった
酒井駒子さんの絵があればこそ、
安心して、ことばを本のなかに
自由に泳がせることができました。

また、ことばの振り幅を広げるこの本と
ある意味では対象的に、
もう1冊同時進行させていた
『ボールのようなことば。』という新しい文庫本が、
本来の「小さいことば」シリーズの
シンプルさを取り戻すかのように
仕上がったことも興味深いことでした。
(こちらも、松本大洋さんの絵がすばらしいです)

デザインはプリグラフィックスの清水肇さん、
印刷進行は凸版印刷の藤井崇宏さん、
全体の進行は「ほぼ日」の茂木直子、
もう何年目だろうという4人のチームで、
今年もつくりました。

例年より遅れましたが、
今年も今年がいちばんだと思える本ができました。
読まれるべき本だと心から思います。

さぁ、どうぞ。

2012年4月



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