自転車思想。
チャリンコは、未来そのものの顔をしている。

原さんが小学校のころ。

こんにちは。

前回ご紹介した名古屋KETTAフェスティバル、
その企画の中心人物で、
おそらく今日もいろいろと活動されている原 啓祐さん。
その原さんが僕に話してくれた、
自転車の思い出、そして自転車への思い。
今回はその辺りを書こうと思います。
何か、その場にいた人だけのものにしておくのは、
ちょっともったいないようなお話でしたので。

原さんが小学校のころ、
名古屋という街は「サイクルタウン」とでも呼ぶべき、
自転車にとって快適な街だったんです。
その名古屋の中心部、栄。
そこから2005年の万博会場でもある愛知青少年公園まで、
約30キロの幹線道路の一部が自転車道になっていました。
原さんをはじめとする名古屋の子供たちは、
その30キロの道のりを自転車で走りきることが、
一種の通過儀礼のようなものになっていたそうです。
ご自慢のマイバイシクルで挑戦する子もいれば、
お母さんの自転車を借りてがんばる子もいました。

全体としては平坦な名古屋の地形ですが、
場所によっては、いくつか厳しい坂も待ち受けています。
そのあまりの坂に疲れきってしまったり、
逆に下りで調子に乗って、ひざ小僧をすりむいたりして、
道半ばにして泣きながら家に帰る子もいました。
成功率は半分以下。
だからこそ挑戦する甲斐もあるし、
その冒険に成功した子供は仲間からの賞賛を受け、
下級生に対して先輩風を吹かせることもできたのです。

しかし、そんな古き良き時代は、
経済発展と都市の拡張の前に終わりを告げます。
自動車の増加と、それに伴い多発する路上駐車の影響で、
せっかくのサイクリングロードも廃止になってしまいました。
そして、おそらくほぼ同時期だと思うのですが、
1978年に道路交通法改正が行われ、
それまで車道を走るということになっていた自転車が、

「そういう表示のある所だったら、歩道も走っていいよ」

“暫定的に”そういうことになりました。
その結果残念ながら、
自転車は車道においても歩道においても、
「邪魔」で「危険な乗り物」
と認識されるようなきっかけを作ったのです。

おそらく、それでも挑戦する子供はいたんでしょう。
しかしそれ以後、多くの少年たちにとって、
自転車旅行は通過儀礼ではなくなったのです。
街の自転車屋さんから子供たちの熱狂が去り、
もちろん原少年も自転車から離れた、
原青年へと成長していったのです。

それから20年近い時が経った1997年。
名古屋に新しいドーム球場ができました。
自転車に乗ることは止めても
ドラゴンズファンであることは止めなかった原青年、
奥さんと野球観戦に出かけました。
球場までの道のりは約2キロ。
会社の自転車で行こうとしましたが、誰かが使用中。
仕方なく歩いて球場に向かいます。
日頃の運動不足がたたったのか、
すっかり歩くのに疲れてしまった時、
たまたま1軒の自転車屋さんの前を通りかかりました。
ウィンドウには1台のマウンテンバイク。
価格は59800円。

「何でこんなに安いんだぁ!こんなにかっこいいのに」

原さんはそう思ったそうです。
ちょうど奥さんも自転車を欲しがっていた時だったので、
その場で買おうと決意しました。
そのまま、球場に乗りつけてやろう位の勢いです。
自転車屋のおやじさんに
飾られている自転車が欲しい、
しかも今すぐ乗って行きたい、と伝えたところ、
意外にも自転車屋のおやじさん、

「売ってもいいがすぐに渡す訳にはいかん」

と言い出しました。
いったん自転車を全て分解して、
さまざまなところを客のサイズに合わせて調整し、
改めて全てのねじを締め直して、
ようやく売り物の自転車になるんだ、
そうおやじさんは語るのです。
それを聞いた原さんは、
そんなおやじさんの姿勢にたちまち惚れ込んでしまいました。

その自転車屋さん「RINRIN」こそ、
かつて小さな冒険に向かう
自転車小僧が集まっていたお店だったんです。
とりあえずその日は自転車を予約だけして、
お店で自転車を借りて名古屋ドームに向かいました。
しかし、せっかく野球を見に行ったのに、
早くも原さんの心はドラゴンズよりも、
2日後に完成するという、
新しい自転車のことでいっぱいになってしまいました。

「RINRIN」で再び自転車と出会った原さんは、
20年前の少年たちのように、
お店に通っておやじさんの話を聞くようになりました。
その話は、次回。

Ride Safe!

2002-06-25-TUE

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