アムスでダンス。
J-POPはオランダの夜に流れる

第6回 移民政策


リオ吉の日々の仕事はお寿司屋さんです。
J-Popを広めるお仕事の方では
まだまだ食べていけません、というより、
全く食べられません。
好きだからやっているというものです。

リオ吉が働く回転寿司屋さんも
アムスの“どセンター(真ん中)”にあります。
出し物はなんてことはない回転寿司なんですが、
インテリアはローリングストーンズの
ステージも作ったデザイナーがデザインしたそうで、
すっごくおしゃれです。
まだまだお寿司は特別な食べ物と思われていますので、
お値段も日本の回転寿司よりもかなり高めですが、
運河に面したいい場所でもありますので、
週末ともなるとおしゃれなお兄さんお姉さん方で満員です。



回転寿司はヨーロッパでは
イギリスから入ってきて広まりましたので、
ここのシェフもウェールズ人です。
それから日本系、ブラジル系、ナイジェリア系、
モロッコ系、イラン系、中国系、インドネシア系、
そしてもちろん生粋のオランダ系と、
さまざまな人が働いていますので、
スタッフで地球のほとんどをカバーできることが自慢です。

一人一人にオランダまで辿り着いたストーリーが
あるのでしょうが、ここでは、アムスで出会った
ある友人の話をしてみたいと思います。


日本では「アナトーリー」と呼ばれていたそうなので、
そう呼んでおきます。

彼が生まれて少年期を過ごしたのはアフガニスタンです。
10歳ごろに、戦乱を逃れて家族と共にパキスタンに移住。
19歳頃の1986年、バブル真っ只中の日本へ、
仕事を求めてやって来ました。
来日当初は言葉もわからず、気性の荒い親方たちに
どやされながら、工事現場、洗濯屋さんなどで働き、
家族への仕送りを続け、結局日本での生活は
12年に及びました。当然のことながら不法滞在でしたので、
医療保険も社会保障もありません。
ですが当時3Kと呼ばれた分野の人手不足は深刻で、
時の政府も行政も法的整備を急ぐよりも、
外国人不法滞在労働者の入国・滞在を
見て見ぬふりをして過ごしたようです。

バブル崩壊後の90年代後半になると
不法滞在者への締め付けが厳しくなります。
アナトーリー君も例外ではなく、
1997年に国外退去になりました。
しかし、考えてみてください。
19歳から30歳までの12年間という歳月は、
社会のなかで自分というものが作られる年代です。
実際に、アナトーリーは不法滞在者だったにもかかわらず、
従業員20名ほどをまとめる洗濯工場の
副工場長になっていたそうです。
汗水垂らして真面目に働いて得た生活
(といっても滞在権も基本的人権もないのですよ)
と役割は、日本でのみしか考えられず、
キプロスの贋パスポートを手にした彼は、
日本への再入国を試みます。
しかし、入国管理官が、12年も住んだ日本の空気が
彼に染み込んでいることを見抜くことに
困難はありませんでした。

日本へ入国出来なかった彼は、
入国した航空機にそのまま乗せられます。
たまたまオランダ経由のオランダ航空の便で
入国しようとしていましたので、
何の当てもなくオランダ行きの飛行機に
乗っていることになりました。
アムステルダムの空港に着くと
日本からの連絡は入っており、
オランダ入国管理官の取り調べを受けます。
ところが、オランダの係官は、
彼がアフガニスタン人であることを聞くと、
「あなたは政治難民としての滞在が
 認められる可能性がある、亡命申請をしなさい」
と告げました。

それからオランダで難民住宅を与えられ、
最初の1年間は生活手当ても支給され、
オランダ語の授業も授けました。
6年過ぎた今では、手当てに頼らず、
しっかり働いて生活しています。

街で日本人の女の子を見かけると、
だれかれ構わず得意の日本語でナンパして失敗することと、
日本で憶えた酒が止められず、
「忘年会したいんだけどさ、
 ラマダン(断食)中なんだよね」
などとのたまうアイデンティティーの
いい加減さが (だから本名出せません)、
いささか問題ではあるんですが、
市民権も医療保険も与えられ、自立心の強い彼は
自分で商売を起こすべく頑張っています。
もうすぐオランダのパスポートが取得できる予定ですので、
そしたら正々堂々と日本に行って、
お世話になったおばあちゃんや親方に会いに行くと
張り切っています。ですが、当然のことながら、
もう一度日本で働いて生活する気はありません。
そこでは基本的人権も与えられませんでしたから。


こういったことから、
無論、オランダの政策を日本に当てはめた方がいいと
安直にいいたいのではありません。
オランダも、90年代に景気が良かったときに
増えすぎた移民を締め付ける政策に
現在は移行していますし、
社会の階層化や分断などの難しい問題も抱えています。

高齢化社会を迎える日本は、これから分野によっては
極端な労働力不足になるそうです。
そうなったら、外国人労働者が
今よりもたくさん入ってきます。
これは門戸を広げるか否かという議論となるよりも、
市場経済に則っている以上、止められない流れです。
日本のビジネスマンが世界中に出ているように。

そんな時リオ吉としては、将来に夢が持てる自由を
出来るだけ多くの人に与えて欲しいなと思うのです。
どこの人でも、自分が評価されれば、
一生懸命やるものです。
居住許可というものや健康保険などというものが
当たり前の人間として当たり前に与えられる、
それすらない人には、そういうことでも
うれしいものなのです。
それは人が一人増えれば、喜びも悲しみも、
そして問題も、一人分増えるものなのでしょう。
ですが、希望を持って生きている人が、
悪意など持つ暇などないことに、
国籍や人種の区別は全くありません。

リオ吉も同じような苦労(甘チャンですが)を経た上で、
最近ようやくオランダの永住権が取れました。
これは雇用されていなくても
居住権がなくならないということを意味し、
本当にやりたいことが独立して出来る位置に立てたことを
意味します。自由を与えてくれたのですから、
それを最大限使って役に立たなきゃなりません。
がんばりまっす。


バー、エロショップ、レストラン、ストリップ、
中華料理屋、ケバブ屋、新宿二丁目系パブ、
インドネシア料理屋、ホテルなどがずらりと並ぶ
多国籍なアムスの中心街の通り(ウィンストンの近くです)。


リオ吉

2003-11-05-WED


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