OL
ご近所のOLさんは、
先端に腰掛けていた。

vol.118
- Big River 2 -



「孤独」からはじまる世界、
---- 『ビッグ・リバー』



『ビッグ・リバー』新宿テアトルほかでロードショー

前回にひき続き、
『ビッグ・リバー』の舩橋淳監督のお話です。

アリゾナの砂漠の真ん中で、
アメリカ人とパキスタン人と日本人が、
たまたま出会い、なんらかの繋がりが出来る。
まったくバックグラウンドの違う人間が
厳しい環境のもとに交差するとき、
そこに何が生まれるのか。
あるいは生まれないのか。
お互いが理解できる可能性と、
そこを越えて、ではその関係の先には、
何が生まれるのだろうか‥‥。

では、映画の舞台になった砂漠のお話から。

□“クラッシュ”というのは幻想なんです。

── やはり印象的なのは、砂漠の風景と、
   モニュメントバレーの長いシーンでした。
   監督が砂漠やモニュメントバレーに感じるものとは、
   何でしょうか。そこを舞台としたのは、
   「西部劇」というものがあると‥‥。


舩橋 そうですね。
   西部劇って、単に悪いヤツを倒すという、
   インディアンを撃ち殺して、
   自分たちの家族を守るっていう映画ではないんですね。
   どちらかというと、自分の中の葛藤と孤立についての
   映画なんですね。「孤独」が主題なんです。
   どういうことかというと、
   鼻持ちならない人間が周りにいる中で、
   自分は協力をするのか、
   それとも銃で脅すのかという、
   二者択一から選ぶという世界です。

   その“二者択一”とは、いまの某大統領が、
   「自分の味方でなければ敵である」と言ってる
   “二者択一”に通底するところがありまして。
   そういった傲慢な世界は‥‥、
   僕は、ロラン・バルトが好きで、
   よく読んでいるんですが、
   彼流に云えば「横柄なイデオロギー」
   ということになるのでしょうか。
   (参照『彼自身によるロラン・バルト』みすず書房)
   やはり、イデオロギーに対抗するのが美学的なもの、
   映画の役割だと思います。

   『ビッグ・リバー』が、
   政治的コンテクストに束縛されることなく、
   つまり、括弧付きの「現代アメリカの崩壊」とか、
   「民主主義の未来像」とかに
   物語を収束させることなく、
   人間の個人の関係を見つめたい。
   「この人はあの人を好きである」とか、
   年長者の若者に対する計らいであるとか、
   観念よりも、感情に寄り添いたい。
   つまり、外見だけの違い、宗教の違いとか、
   実はそのような違いはどうでもいい、
   というところに映画を持っていきたかった。

   「文明の衝突『The Clash of Civilization』」
   (サミュエル・ハンチントン)と
   言いますが、“クラッシュ”じゃないんです。
   “クラッシュ”というのは幻想なんです。


── つまり、人間対人間‥‥。

舩橋 そういうことです。
   それを映画の形で、提示できないか
   ということです。

   で、さっきの話に戻りますけど、
   西部劇に通底するテーマは、
   「孤独」であって、それは、信じるか、
   敵対するかの二者択一が迫られる世界であったと。
   その西部劇の世界と、現代アメリカというのは、
   どこかで似通って来ている。
   両者を映画の上でぶつけてみようと。
   そう考えたのが、最初の着想でした。



── 監督は評論の中に、ジョン・カサベテスの話を
   よく書いていらっしゃいますが、
   『こわれゆく女』のなかで、
   ピーター・フォークの役割というか、
   私は、アメリカを象徴している気がして、
   「オレが支配しているんだ、
    オレがコントロールしているんだ」
   という行動をとる人に対する
   疑問の投げかけなのかなと思うのですが。
   カサベテスはそれを含んで、さらに、じゃどうしよう、
   という映画なのかなと‥‥。


舩橋 おもしろいですね、その観方。
   じゃ「白鳥の湖」を踊ったら、
   アメリカに勝てるんですかね(笑)。

   (ジーナ・ローランズが「白鳥の湖」を踊るシーン)

── ということですかね。気がふれたフリをして‥‥。

舩橋 カサベテスは、最後のバンドエイドのシーンで、
   調和しましたよね。


── はい。バンドエイドはいいシーンですね。
   リーダーはどうであっても、
   もともと移民を受け入れる度量のある国ですから、
   中にいる住民は外から見るより、
   もっと柔軟だよってことですか。


舩橋 やはり現実はカオスで、
   もっと複層的なんでしょうね。
   それに対して、
   メディアが非常に鈍感で、
   あくまでも類型化を行おうとするところに
   問題があると思うんですよ。
   9.11の場合は、オサマ‥‥タリバン、
   次はサダム、イラク‥‥
   ジャーナリズムだけではなく、
   映画の格好のネタになっちゃうんですよね。
   なので、もうそういう政治的な文脈に
   映画を回収するのは、止めにしましょう、
   というのが『ビッグ・リバー』なんです。


── うん、うん、うん。

舩橋 だから、半分、現実の延長でありながら、
   じつは彼らが旅しているときに、
   そんなことは(類型化なんて)問題にならない、
   3人だけの空間では‥‥。
   でも現実に戻ると、外界から見て彼らは、
   パキスタン人と、日本人と、アメリカ人で、
   「外国人が2人いる」と差別視されてしまう。
   警察の尋問のシーンがありましたが、
   そういう現実との落差みたいなのを見せたい、
   というのが、脚本を書き出した当初から、
   ずっと強く思っていたんです。

   ‥‥というのは、僕のとても身近な実感として、
   NYには、パキスタン人もいれば
   インド人もいる、中国人もいればロシア人もいる。
   それにヨーロッパからも、いろいろいます。
   その中で人と接近するとき、
   国籍・宗教の違いをまったく意識せずに
   日常会話を交わし、人と人としてつきあう。
   「おまえが嫌いなのは、
   おまえがパキスタン人だからじゃなく、
   おまえが嫌なヤツだからだ」ということです。
   そんな実感が、セリフに
   反映されていると思います。


── そういう意味じゃ、登場人物は、
   けっこう成熟しているというふうに思いました。
   オダギリジョーさんの役柄にしても、
   普通の日本人観光客とは違って、
   旅慣れたバックパッカーで。


舩橋 だけど、今はそうじゃないですか?
   コテコテの日本人観光客って今はいないですよ。
   今は中国からが多いかもしれませんね。
   アメリカで見ていると。


── ということは、日本人としては、
   成熟してきたってことですね。


舩橋 もう外国はべつに「外国」じゃないですね。
   「なんでオダギリジョーが日本語しゃべらないんだ」
   というのが、愚問な時代です。


   つづく。

そうですよね。考えてみると、
私が航空関係の仕事をしていた
80年代後半〜90年代前半は、
それこそバブルまっただなか、ネコもシャクシも
海外旅行で、飛行機の中は「団体様」ですごい状態だった。
まさに、カメラを下げて旗振って‥‥みたいな。
逆にそこでほとんどの人が海外経験を積んできて、
海外で「浮いている」自分とか、
案外日本のことを知らない自分とか、
「英語でしゃべらないと」ツライ状況とか、
学習できたんですね。

ひと時代過ぎた感‥‥。
21世紀です。‥‥にしても、
オダギリさんのteppei(哲平)はかっこ良すぎ!
そして、キャスティングのお話は次回です。
お楽しみに。

DIRECTOR ATSUSHI FUNAHASHI


Special thanks to Director Atsushi Funahashi
and Phantom Film.All rights reserved.
Written by(福嶋真砂代)

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2006-05-26-FRI

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