あなたの、
『MOTHER』の気持ち。

こんにちは。
たくさんのメールをありがとうございます。

今日、仕事で新幹線に乗りました。
席に着いてすぐに開いたのは、
みなさんからのメールが
ぎーーっしり入ったノートパソコン。

移動の時間を利用して、
数百通のメールにあらためて
目を通していきました。
泣けるなあ、と思いながら読んでましたが、
まさか、ほんとにぼろぼろ泣くとは思いませんでした。
ハンカチを握ったままの数時間。
隣のサラリーマンが寝ていてほんとうによかった。
いいおとななのに、まいったなあ。
今日の私にキャッチコピーをつけるとすれば、
「新幹線で、泣くんじゃない。」
失礼しました。

さて、じっくり、ゆっくりの土曜日。
今日は心に強く残ったメールを
8つだけ、載せますね。



俺がまだ高校生(現在31歳)の時
最初のマザーと出会いました。
あまり深く考えず女の子の名前に
クラスの隣の席に座っている女子の名前を付けました。
ゲームも佳境に入っていき、まわりはやたら強敵だらけ、
頼みの綱のロボット君も壊れ、逃げまわりながら
なんとか途中の電話のある小屋に逃げ込みました。
まったく歯が立たない強敵にあたりを囲まれ、
意気消沈していると突然!!
クラスの隣の席の女の子の名のキャラクターが
主人公の僕の手を取ってくるくる踊り出しました。
台詞とかはたしかとくになかったと思うんですけど。
とても印象に残っていて、あついものがありました。
名前は勝手につかっていたんですけど
隣の席の女の子にどうしても
このこと伝えたくなっちゃって
はなしたら、思わずもりあがってしまいました。
その子はゲームはほとんどしない子で
当時はゲームの話で女子と盛り上がるなんて
MOTHERが初めてだった。
卒業の寄せ書きにまたいっしょに踊ろうと
書かれていたのをおもいだします。
もうあの子も良きMOTHERになっているんだろうなぁ〜
(ふるおや ゆうぞう)

ほぼにちは。
僕がMOTHERと出会ったのは小学四年生の時でした。
当時はまだRPGというゲームのジャンルなど知らず、
家にファミコンはあったものの、
ゲームソフトをたくさん持ってはいませんでした。
そんなある日、
いとこのお兄ちゃんの家に遊びに行ったら、
何歳も年上のお兄ちゃんはたくさんのゲームソフトを
持っているじゃありませんか!
もちろん僕は大喜びし、
すぐに「ファミコンで遊んでいい?」と聞きました。
すると、お兄ちゃんは
「うん、いいよ。でも、これだけは触らないでね」
と言いました。
…それが、MOTHERだったのです。
今となってはもう、その時に遊んだゲームのことなど
覚えていません。
しかし、お兄ちゃんが人に触られることを嫌がった
MOTHERのことだけはいまだに覚えています。
その数年後、
MOTHER2で初めてシリーズをプレイし、
更に何年も経ち、今僕はゲーム業界で働いています。
MOTHER、大好きです。
1+2と3楽しみにしています!
(ユウイチ 23歳)

1も2も鮮明に私の心の中に残っています。
ポーラを自分の名前にし、
大好きな男の子の名前をネスにつけたりしました。
何度も何度もプレイし、エンディングが近づいても 
なんだかこの世界から離れたくなくって
いろんな町をブラブラし、
全員のキャラを会話を楽しんでたっけ・・・。
この嬉しい知らせを知って、奥にしまいこんでた
サントラを引っ張り出して聴きました。
どの旋律も懐かしく、楽しかったあの頃の思い出と
あの独特の世界が次々に心に巡りました。
涙があふれ、止まりませんでした。
6月の1・2、そしてもうすぐ逢える3の世界で、
もう少しだけ遊んでから
私も「MOTHER」になろう、、ようやく決心出来ました。
私の子供が冒険に出たら、大好物を作ってあげよう。
心配だけど、家で電話を待ってよう。
ネスのママのようなお母さんになろう。
「バーイ!ガチャン ツー、ツー」
(はるるん)

10年くらい前、中学3年のときに、
転校生で引っ越してきたばかりの私は
何もかもが新しい学校生活で
進み具合や違う公式で解かれる授業を
泣きたい気持ちで受けていました。
詳しく聞ける友達もまだいなかったし、
もう受験ムード漂う教室で行われる授業を妨げて
先生に「わかりません」というのもできなかった。
みんなが知ってる英単語を必死に辞書で調べて、
新しいものも一緒に調べて
わからないことだらけでもう嫌だ!
と思っていたときに聞こえてきたんです。
MOTHER1の子守唄が。隣の小学校から。
リコーダーで繰り返し繰り返し聞こえてくる
メロディが懐かしくて嬉しくて
新しいものだらけに囲まれて寂しくなっていた私は、
昔からの友達に会えて「がんばれ」って
言ってもらったような気がしました。
CDを聞いていたら思い出しました。
今も同じところに住んでいます。
あの時聞こえた子守唄の楽譜は
その小学校に弟が行っているということで
コピーを貰いました。
コピーしてくれた子とは今でも友達です。
一緒に「MOTHERが出るね!」と喜んでます。
(TOTO)

ニュースを読んだとたん、
小学校のクラスメイトのガセネタを信じ、
2コンのマイクでギーグに
力いっぱい子守歌を歌った自分が蘇りました。
次の日にその子と取っ組み合いのケンカをした事や、
それで出来た青タン&すり傷の痛さ、
仲裁に入った先生が呆れ顔で
マザーだ歌だギーグだの
話を聞いてくれた時の様子もはっきりと思い出せます。
おかえりなさい、マザー、そして子供達。
また一緒に進みましょう。
(yap)

糸井さんの
「それがないと、最後までつくれなかった。」を読んで、
お伝えしたいことができたのでメールさせて頂きます。
「MOTHER2」をプレイしていた当時、
電話の向こうのパパのことを
冷たいと思ったことは一度もありません。
いつもいっしょにいることは出来なくても、
いつでも呼びかければ答えてくれる。
パパはきっと何か大事な仕事をするために
どこかへ行っているんだと思っていました。
子供を愛しすぎたり、
愛せなかったりする話はよく聞きます。
ちょうどよいくらい子供を愛するのは
きっと難しいことだと
自分も母親となった今は思います。
今度、アドバンスで
「MOTHER1+2」をするときには
ネスを送り出すママの気持ちになれるような気がします。
(なまこ)

MOTHERの思い出はたくさんあるんですが、
中でもいろんな乗り物に乗って
移動するのがすごい好きでした。
バスに揺られて見知らぬ街に辿り着いた時なんか、
「どんな新しいことがおれを待ち受けてるんだろう」と
実際にその土地に訪れたように
心が躍ったのを覚えています。
とりわけ印象に残ってるのは電車です。
「世界の車窓から」を見てる時に感じる
遥か遠い距離感が好きで、
用もないのにわざわざお金を払って
同じ駅を何度も何度も行ったりきたりしました。
特に、長いトンネルをくぐって、
雪一面のスノーマンの街に着いた時は
もう感激でたまりませんでした。
スノーマンは街のBGMも、雪国の冷たい、
けど暖かい雰囲気があって、とてもいいんですよねえ。
MOTHERの電車に対する思い入れは、
話すと尽きないんですが、
ちょっと変わってるのは「死体探し」でしょうか。
僕がMOTHERをプレイしていた頃、
ちょうどS・キングの
「スタンドバイミー」に傾倒してまして、
とある街にいたおばさんから
「昔、死体探しにいったんだ」ということを聞いた時、
「きっと、線路の側に死体が隠されてるんだ」と
勝手に思い込んじゃったんです。
もうそれこそ、あの、めちゃめちゃ長い線路の
端から端まで「しらべる」を実行しました。
死体を発見して警察に届け出たら、
街の英雄になれるんじゃないかって。
ゲームをクリアした後も、なかなかあきらめきれなくて、
気が向いては線路を歩いていました。
当然、ゲームの中にそんなイベントはなかったわけで、
結局は何も見つけられなかったのですが、
ほんま、僕にとって、
もうひとつの「スタンドバイミー」でした。
(イシカワ)

初めてMOTHERをやったとき
付き合っていた彼と同棲していました
可愛い名前を考えようといって話し合い
女の子の名前を「かえ」にしました
若くてヒマだった私達は、2人で寝そべりながら
エンディングまで一緒にプレイしました
MOTHER2が出てからも
私達のポーラは「かえ」ちゃんでした
彼が就職して夜が遅く生活はすれ違いになったけど、
私が進めた内容を毎晩彼が聞きたがり
エンディングを見たのにもかかわらず
「俺も」と言って奪いとリ、新たにプレイしていました
そして私は、彼と結婚しました
7年がたち、
いま私達には1歳半になろうとしている娘がいます

おんなのこ の なまえは?

色々なことを思い出しました
ありがとう
今夜はかえが寝てから、
12回目のMOTHER2をやり始めます
(かえのMOTHERより)

2003-04-19-SAT

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