ポケットに『MOTHER』。
〜『MOTHER1+2』プレイ日記〜

6月22日 懐かしい違和感


『MOTHER』をプレイしたのは10年以上も前で、
僕は、ほとんど記憶にない、と書いた。
そのころは多くのRPGをいっぺんにプレイしていて
とにかく駆け足でいろんなゲームをやっていたからだ。

ところが、最初の画面を見たとたん、
ん? ここ知ってるぞ、と思った。

単純に、その画面を、その場所を、
過去の記憶から掘り起こしたというわけではない。
そこを見たときに感じた違和感に覚えがあったのだ。
10年以上前、僕はこの画面を見て、
いまと同じように、「ん?」と感じたのだ。

平面上に奥行きを表現した奇妙なパース、
画面の周囲にある中途半端な黒いスペース、
なんだかずいぶん高く感じる部屋の天井。
10年以上前、僕はこの画面を見て、
たしかに「ん?」と感じ、
10年後のいまもまた「ん?」と感じたのである。
その独特な絵の感じに、
昔の僕といまの僕は等しく反応した。

10年の時を経ても自分の感覚が変わらないことを
奇妙にも思うし、おもしろくも思う。

ことわっておくけれども、
ゲームのはじまりにプレイヤーが
何かしらの違和感を抱くことは珍しいことではない。
とくに、絵の表現に制限のある昔のRPGでは、
そういった感覚を覚えるほうがふつうだといえる。

なにしろ、そこにある表現はほとんどが無理矢理である。
人も、タンスも、窓も、木も、犬も、電話も、
わずかばかりの点の集まりで表現されているから
パッとみてそれがなんであるかを
直感できるようなものではない。
プレイヤーは、状況や、メッセージをたよりに、
それがなんであるかを能動的に理解する。
点の集まりで描かれた記号を見て、
それがなんであるかを想像して、理解する。
だからこそ、与えられる情報の少ない、
ゲームのはじまりには、
「ん?」「こりゃなんだ?」といった、
なにかしらの違和感を抱く。

たとえば、ゲームがはじまってすぐ、
主人公の妹が登場する。その後ろ姿を見て、
一瞬、僕はそれが人だと理解できなかった。
それは、千鳥格子の一部のようなものにしか見えなかった。
けれどその千鳥格子が移動し、
くるりと振り向いたとき、
明らかにそれは人であると感じられた。

つぎの部屋に行って別の千鳥格子を見るとき、
すでにそれは人にしか見えなくなっている。

当時はこんなことを思わなかったけれど、
僕らは昔、ゲームをプレイするというだけで
いろいろと頭をつかってのだなと思う。

そして14年前に出た『MOTHER』を
いまプレイするとき、そういった、
記号を自分のなかで増幅して
意味を持たせるという行為自体を
予想外に心地よく感じる。

ゲームがインタラクティブだというのは、
たんに物語の主人公を自分の手によって
動かすことができるというだけではないのだ。

働きはじめた想像力が
ゲームボーイアドバンスを握る僕の体温を
わずかばかり上昇させているような気がする。
ひょっとしたら、僕の想像力は
ちょっとばかり錆びついていたのかもしれない。

なんだか固い話でごめんなさい。
いちいちそんなことを四の五の考えながら
プレイしてるわけじゃないんだけど。
ゲームボーイアドバンスSPをにぎる僕は
だらだらと寝そべっていることを報告します。
寝ながらできるのって、とってもいいよね。

レベルが3になりました。
のんびりいきます。

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2003-06-23-MON


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