KANA
カナ式ラテン生活。
スペインは江戸時代の長屋みたいさ、きっと。

【コミュニケーション・フェチが無口になるとき】


兄の住むサンディエゴに、半月ほど滞在した。
車で20分ほどで国境になることもあり、
日帰りでメキシコにも行った。

(余談と営業:
 実はその直前の3週間ほどは、
 『情熱とサッカーボールを抱きしめて』
 という本のプロモーションのため、著者として、
 主人公の佐伯夕利子さんという素敵な女性とふたり
 2年ぶりに日本に滞在していました。
 彼女がどんなに素敵かということは、
 たぶんまもなくはじまる
 木村さんのインタビュー「経験論」で、どうぞ。
 そして気に入ったら、本も見てみてね!
 ↑ココ、大声。)



アメリカでは、英語が話されている。

それはわかっているのだけど、
ふだん頭の中が「外国語=スペイン語」だから、
外国語を喋ろうと思うと
条件反射的にスペイン語が出てくる。

いかにもアジアな見かけの私が
いきなり「ブエーノ(えーっと……)」などと
まったく脈略なくスペイン語を話すのだから、
相手に、しこたま驚かれる。
しかも慌てると、こちとら、
ますますスペイン語しか出てこない。
そこで、言わなくてもいいのにオタオタして、
「いや、スペイン住んでるもんで……」
と、言い訳をしてしまう。

いや、実のところは、
ちょっと相手をおもしろがらせたいという
いやらしい下心もある、かもしれない。
なんせ私はコミュニケーション・フェチで、
その場を会話で楽しく過ごすというのを
たまらなく快いと思ってしまうのだ
(当然、ラテンなスペインでその性癖は増長)。
スペイン在住日本人、というネタに
なんか食いついてきてくれればいいなぁ、って。


そこに、意外なリアクションが返ってきた。
アメリカでも、メキシコでも、変わらなかった。
同じことが、何度か繰り返された。

私の言葉を聞いて、相手の表情が、微妙に変わる。
それは、明るくなる、と、いっていいと思う。
そして、言う。
「そうか、スペインでね、なるほど。
 じゃ、ここらのスペイン語と違って、
 本場のスペイン語なわけだ」

たとえこの話者が、スペイン語を話せず、
従って「ここらの」と「本場の」のスペイン語の違いを
絶対にわかってないだろう場合でも、
それにもかかわらず、同じ言葉が返ってきた。
(ちなみに、メキシコでだけスペイン語での会話で、
あとは英語での会話)


私ははじめ、その言葉が意味することが
ちっともわからなかった。
なんだろう、方言の違いのこと?
え、なんでいきなりそんなアカデミックな話になるの?
でも、
続けられる言葉を聞いて、ようやくわかった。

続いたのは、「ここらの」スペイン語話者、
つまりはメキシコをはじめとする中南米人への
ネガティブな言葉だったのだ。


(あぁ、同じかんじだ‥‥)

その度に、私はある光景を思い出していた。
スペインの街角で、タクシーで、
「日本人?」と訊かれたあとに、
さらにはしばしば
「あぁ、日本人は大好きなんだ。教養あるしね」
とかなんとか喜ばされたあとで、
たまに、いや、しょっちゅう、続く展開。

「日本人ならいいよ。それに比べて中国人は最悪だね。
 あいつらときたら‥‥」
私は敬愛する中国人の友人の顔を思い浮かべながら
泣きたくなるような切ない気持ちでそれを聞き、
なんとかして最速で話を変えるよう試みる。
それが成功しても、
あとはすっかり、沈んだ気分になる。
無口に(すら)、なる。


彼ら、
私に対して「本場のスペイン語」と言ったひとと、
同じく「日本人ならいい」と言うひとには、
共通点がある。

まず、目の前の私に気を遣ってくれていること。
多くは、その前後の好意的な態度から考えるに、
私を楽しませよう、いい気分にさせようという、
サービス精神から出た言葉なのだろう。
(もちろん、日頃の鬱憤を晴らしているひともいようが)

そしてもうひとつが、
私を持ち上げるために引っ張り出してきた対象を、
ステレオタイプな言葉でけなすことだ。
本当に、こういう時は誰もが、
どこで聞いたのか、同じような表現を使う。
そういえば。
思い出せ。
彼らはその前に、私にこう言わなかったか?
「日本人はいいね、教養あるし」、と。
私という、かなり下品でスペイン人より喋り好きで、
太っていてちっとも日本人らしくない(かもしれない)
目の前の具体的な存在に、思いが至る前に。

気のいい彼らは、次に白人が来たら言うだろう。
「白人はいいね、それにひきかえアジア人は‥‥」
あるいは日本という国のイメージがダウンした時には
迷うことも振り返ることもなく、こう言うだろう。
「韓国(中国)人はいいね、
 それにひきかえ日本人のやつらときたら‥‥」


私はたまたま高度成長を果たした時代の日本に生まれて
たまたま日本の国籍があって
たまたまスペインに住んでいて
たまたま標準スペイン語を話している。

ちっとも、偉いことじゃない。
それは、数年に一度の居住許可更新の時にわかる。
私は、単なるいち移民だ。
冷たい雨の降る歩道で午前7時から
数百人の「外国人」とともに列を作って待つ。
書類の不備や、よく知らない高度に政治的な理由で、
ただ住むという権利さえ簡単に剥奪される、移民だ。

あるいは、通りすがりのひとの一瞥で、わかる。
見るからにアジア人である私に対する蔑視。
アメリカでスペイン語を話す私に対する蔑視。
たまたま心優しいひとが
「君は日本人だ」「ヤア本場のスペイン語だ」と
目の前に現れた私に戸惑って
やむなく(のような気がする)救済、してくれるまでは
私はただの、蔑まれる対象だ。

それが現実、なのだと思う。
私はチニータ(中国人女性ちゃん、という意味だが、
アジア人女性全体に対する蔑称としてよく聞く)で、
スパングリッシュを喋る、湯川カナだ。
上等。
バカ野郎はバカ丸出しでバカにしとけばいいさ。
それが具体的に自分の不利になったら闘うけどなぁ、
だからって俺は
オノラリー・ホワイト(※)なんて、いらねぇぜ!
(たぶん。
 生き死にの問題になったら、ひよるかもしれんよ)


と、心の中で啖呵を切りつつ、
‥‥でも実際に目の前にいて
中南米あるいは中国人の悪口を言うひとは
たいがい悪気はないわけで、
おそらく私自身がそうだったように
自分の言葉がこう受け取られるかもしれないってことを
想像してみたことすらこれまでなかったのだろうし。

だから私は、「いや、メキシコ人の方が
よっぽどスペイン語上手だってば」とか
「あ、でも友だちの中国人に
すっごく良い子がいるんだよー」とか
「でも中華料理は好きでしょ?
 美味しいところ教えるよ」とか
ヘラヘラ笑いながら、
あるいはまったく別の話を切り出したり、
さもなくばそそくさとその場を離れてることで、
その瞬間をやり過ごす。

でもやり過ごしたあともやっぱりちょっと悲しくて、
コミュニケーション・フェチとしては珍しく
無口に(すら)なってしまう。


‥‥なんで、こんなに悲しくなってしまうんだろう?
(考えた)
あ、大好きなコミュニケーションの場に、
このとき実は「私」がいないことに
気づいちゃうから、なのかな。
だって、
どこからか拾ってきたイメージに向かって喋ってるのは
ただの独り言、だもんね。

私は具体的なひとりの人間と、
いまここにいる湯川カナとして、
話がしたいんだなぁ。
そうみたいだよ、つくづく。

おーーーーい!
声、聞こえそうー−??



※オノラリー・ホワイト:
かつて、南アフリカ共和国で行われていた
アパルトヘイトという人種隔離政策下で、
日本人は有色人種でありながら
「オノラリー・ホワイト=名誉白人」として
特別待遇を受けていた。


カナ




『カナ式ラテン生活』
湯川カナ著
朝日出版社刊
定価 \700
ISBN:4-255-00126-X



ほぼ日ブックスでも
お楽しみいただけます。

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2005-07-26-TUE

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