知的財産は、
使うためにある。

山形浩生さんに
著作権保護のことを訊きました。

2002年の暮れに出版された
『コモンズ』(ローレンス・レッシグ著/翔泳社)は、
インターネットでの所有権のあり方についての
丁寧な分析をもとに、いくつかの提案を掲げた本です。

著者のレッシグさんはサイバー法の第一人者で、
前著『CODE』も話題になったので、すでにお名前を
耳にしたことのある人も、いらっしゃるかもしれません。

著作権法の現状をまじめに見つめることは、
実は、これから生みだされる文化とっても、
かなり大切なことだと思うのです。

そこで、今日の「ほぼ日・経済新聞版」では、
この本を翻訳した山形浩生さんに、ご登場いただきます!
ぜひ、じっくり、読んでみてくださいね。

『コモンズ』とは、どういう本か?



コモンズ
(ローレンス・レッシグ著/翔泳社)

 

柳瀬 山形さんが訳された
ローレンス・レッシグ著の
インターネット上の知的著作権に関する本、
『CODE』『コモンズ』(どちらも翔泳社)が、
両方とも、ものすごくおもしろかったんですよ。
著者のレッシグって、まだ若いんですよね?
山形 40代に、なってるか、
なってないかというぐらいです。
柳瀬 そっかぁ‥‥我々と変わらない世代なんですね。
山形 ええ。
柳瀬 すごい。
レッシグの、サイバー系に対する
豊富な知識って、どこから来ているんですか。
もともと、ロースクール系の人ですよね?
法律が専門の。
山形 ええ。
一生懸命、自分で吸収しているとは思います。
それに、好きなんでしょうね、やっぱり。
柳瀬 レッシグ、いま、日本にいらしてるんですね。
コミケ(コミックマーケット)に行かれてるとか?
山形 アメリカの著作権法では、
パロディ系のコミックは
すべて著作権法上は違法になります。
日本でも、もちろん違法ではあるんですが、
大目に見られている。
この「大目に見られている」ということに、
日本のマンガ文化の
魅力の一端があるはずだと‥‥。
柳瀬 なるほど。
アメリカではコスプレパーティーはあっても
コンテンツをみんなが持ちよって
あんな晴海の大きな会場で
即売会をやるなんて、ないですもんね。

さて、本題に入ります。

今回は、2003年のはじめの
「ほぼ日・留守番番長」を、
わたくしがおおせつかりまして‥‥で、
まあ、日経グループで禄を食んでいることもあり、
「一日だけ、ほぼ日を経済新聞にしよう」と。

で、そのなかの「書評コーナー」として、
ここでは、この1年、経済・社会関係の本で
もっとも面白くかつ重要な内容について
記された本だと思うこの『コモンズ』の翻訳者の
山形さんにご登場いただき、
著作権と創造性、市場と規制、
そして「自由」についての問題を、
ぜひ「腑分け」してもらおう!
‥‥というのがもくろみなんです。

実は、
ほぼ日の読者には
じつは、「経済」だとか「科学」に対する
『知的好奇心』が高い人々が多いのではないか?
とぼくは推測しているので、この話は、
きっとたのしんでいただけるのではないか
と思っております。

そこで、『コモンズ』という本を
まずはざっくり、
山形さんにご紹介していただきたいんですけど。
山形 もともとの英語のタイトルは
「アイデアの将来」となっているのですが、
本人も実際英語版のタイトルも
『コモンズ』にしたいと言っていましたから、
たまたま、日本語タイトルがうまく決まりました。

世の中には、
昔なら自由に使えた資源というものがあって、
"コモンズ"というのは、公園だとか空き地だとか、
そんなようなものです。
人が犬を散歩させたり、勝手に使ったりと、
そういうところがあることで、
社会全体が豊かになった面がある‥‥。
許可を得なくても、
いろんなことをすることができる。

そういう話を拡大したのが
この『コモンズ』という本なんです。

いま、知的財産がどうしたこうしたという話が
あちこちに出ています。
違法コピーがいけないだとか、
何をしてはいけないとかいう主張がありますが、
誰でも自由に使えるものが
世の中にあるということは、
実はけっこう便利なものなんです。


いちいち許可を取らなくても
いろいろなことができるということは、
けっこう、よいことなんだというのが、
この本の基本的な話です。


「本書の議論は、いつでもどこでも、
 フリーなリソースが
 イノベーションや創造性にとって
 きわめて重要だった、というものだ。
 そしてそれなしには、
 創造性はゆがめられてしまうというものだ。
            (『コモンズ』p.32より)」


一方的にいろいろなことを
しめあげようという世の中の風潮は、
よろしくないのではないか、という話ですね。
特に、インターネット上の著作権の
保護のしすぎは、まずい、ということです。
柳瀬 著者のレッシグ氏が
こういう本を書くということは、
アメリカでは、すでに、さまざまなかたちで
「著作権」だの「特許権」だのを
強化していこうという
方向になっているわけですか。
山形 著作権法をのばそうだとか、
コピーガードを排除することも
違法にしようだとか、
コピーガードがどういう仕組みかを
調べるだけでも違法にしようだとか、
異様な締めつけが増えてきているというのが、
背景にあります。
柳瀬 たしかに本書の話を読んでも驚きですよね。
あらゆるモノの著作権が幅を利かせてるから、
アメリカでは映画も自由にとれなくなっている。
山形 画面にちらっと
「某有名清涼飲料水」や
「某有名キャラクター」が出てきただけで
「著作権料よこせ! 無断で使ったら訴えるぞ!」
っていうのがもはや実話としてあるわけです。
柳瀬 となると、
看板だらけの街角でロケをすると
エライことになりますね(笑)
要は、あらゆる商品の
「既存の著作権やアイデアを持っている人」
が、自分の
「俺がこの商品を考えついたんだ!
 だから勝手に使うな!
 使うんだったらカネよこせ!」
という権利を守りたいというのが、
その締めつけのベースなんですか?
山形 当然、そうですね。
この中では、そういう人たちを総称して
「ハリウッド」と呼んでいますけれど、
まぁ、そういう人たちです。
例を挙げれば、
ミッキーマウスを独占的に使いたいだとか‥‥。

今の著作権法は、一定期間が過ぎれば、
みんなが使えるようにしようとなっています。
「なぜそうなっているのか?」が、
実は大切な問題なんですけれども、
ともかく、そうなっていて、しかし、
そろそろ期限が切れるぞと思った瞬間に
「あと20年、のばそう」という話になるんです。
柳瀬 そうか。
それにしても、
「ハリウッド」って力があるんですよね。
レッシグの話では、
もともと著作権の有効な期限が
50年だったものを、
どんどん延長して
80年や90年にしたり……議員を動かして、
法律を変えてしまっているわけですというのだから。
山形 そうです。


知的財産は、使うためにある


柳瀬 あらゆる文化は、
誰かの作ったものを誰かがコピーして、
それを自分なりに「編集」して
次の誰かに伝えている‥‥
ぼくは文化の伝達と発展というのを
そんなふうに考えていたんです。

個々人がコピーした「文化」が
ちょっとずつ個々人の癖で
ズレていき、その中から
新しい文化が生まれていく……。
そんなイメージが、ぼくの中ではあったので、
レッシグが本書で表明している
「著作権のむやみな強化は、
 世の中のあらゆる文化の創造を根絶やしにする」
という危機意識には
ほんと、なるほど!そうだよなあ!
と思いました。

これはしかし、文化の消費者のみならず、
著作権をもっている文化の創り手にも
結局は、跳ね返ってくる話ですよね。
アメリカでも、レッシグの指摘は、
危機意識として大きな問題になっているのですか?
山形 なってはいます。
レッシグがいま関わっている
「著作権延長は違法ではないか?」
という裁判があります。
いま、最高裁で彼が答弁をしたところですが、
「そもそも、最高裁がそういう話に
耳を傾けているということ自体、
画期的なことだ」
と一般的には受けとめられていますね。
危機意識を持っている人は、かなり増えています。

特に、ソフトウェア特許については、
ソフトウェア関係の会社が、
「これでは、どんな特許が出るかわからんし、
 会社として、何もできなくなっちゃうよ」
ということで、
あまり強すぎる締めつけはやめてくれ、
っていう話になっています。

それから、それ以外にも、
例えば映画の話なんかあるんですけど、
商業的に価値のある映画って、
世の中の映画のほんの2%だ、と、
誰かが言っているようで、
ともかく、ごくわずかなわけですね。

その2%のために
誰かが保護したくなるのでしょうが、
そのおかげで、権利者以外は使えなくなる。
映画の場合は、今から20年著作権を延ばすと、
かなりの映画が、セルロイドが劣化して
使いものにならない、消えちゃうよ、っていう。


今の段階で、著作権法で保護されているのなら、
それをデジタル化だとかビデオ化とか、
焼き返しをしようとするだけで、
実はどこかのおばあさんが出てきて
「あれはあたしの何とか権があるから」
っていうことを言いださないとも限らない。
だから、怖くて手をつけられない。
柳瀬 なるほど、映画だって、音楽だって、
過去のソフトウェアの中で「商売」として
成立し続けているものは
ほんのわずかの作品だけ、ということなわけですね。
山形 その通り。
その影に、著作権の保護の名のもとに、
誰の目にも耳にも触れずに消えていく
貴重な、しかし「商売」にならなくて消えていく
ソフトが大半ある、と。
眼前の著作権の保護を追及するあまり、
その対象となる「作品」そのものが、
誰にも触れられず、「保護されなくなる」、
という皮肉な状況がおきつつあるんです。
柳瀬 それは、まさに本末転倒な状態ですね。
そういえば、音楽についても
同様の問題をレッシグは指摘していますね。
山形 ナップスターの話、ですね。

(※ナップスターとは、
  米ナップスター社が発明した
  MP3のファイル共有を簡単にする技術。
  これを持っていると、ネットに接続した
  大勢の個人たちが保存している音楽を、
  いつでも瞬時に聴けるようになったのです。
  全米音楽産業協会から
  著作権侵害幇助で訴えられた以後も
  利用者数6000万人弱まで跳ねあがったが、
  楽曲交換サービス存続をかけた訴訟に敗け、
  2001年、ナップスター社は
  楽曲交換サービス停止に追いこまれました)
柳瀬 レッシグによれば
ナップスターのようにインターネットを介して
過去の音楽をみんなが共有できる、ということは、
必ずしも、最新のヒット曲をみんながコピーして、
アーティストやレコード会社の
商売の邪魔をする、というわけじゃない。
‥‥少しはそういうこともあるかもしれないけれど。
むしろたとえば、
通常ならば個人がほとんど手に入れることの
不可能な、たとえば、
80年前のイナカのジャズミュージシャンの
たまたま誰かが持っていた古い音源を
みんなが聴ける可能性を共有できる。
それがすなわち、コモンズ(共有地)という
ことじゃないか、ってことですね。

で、山形さんに質問です。
日本は、アメリカに比べて
法律の面では著作権保護がゆるいので、
この『コモンズ』で語られていることが、
あらかじめ理解されていれば、先まわりして、
いい法律にできる可能性がある、と思うんですが。
山形さんは、日本における
こうした「知の共有(コモンズ)」について
どのような懸念を抱いてらっしゃいますか?
山形 やはり、いろいろなものが、すぐに
手に入らなくなってしまうという現状はあります。
絶版になっているものを
手に入れやすくするだけでも、
非常に大きな手間がかかる。
ですから、わざわざそんなことをやる人は
あまりいない‥‥。
そうやって時間が過ぎていくうちに、
いろいろなものが、忘れさられていく。
そういう問題は、ひとつあるよ、と。

いちばん大きく影響してきているのが、
コピーコントロールCDなどの問題で、

(詳しく知りたい方は、1月2日の
 「ほぼ日」に掲載されたこちらをどうぞ)

あれは、いままで使えると思っていたのが
使えなくなるということも、ありまして。
コピーコントロールCDの場合は、
法律の問題ではないですね。

何かに規制をかける時には、
法律でそれはいけませんよと禁止する場合と、
技術的にできなくしちゃうやり方との、
ふたつの方法があります。

法律の場合は、
「いけませんよ」といくら言っても
誰かがやろうと思えばやれちゃうわけです。
でも、テクノロジーでそれをやられてしまうと、
ほとんど、誰にもできなくなる。
できなくなるばかりではなくて、
現実にいまCDを再生できなくなった人が
出てきているということもあります。

本来、社会として、何らかのものができたら、
それにアクセスできるようにしてくださいよ、
というシステムもありますし‥‥
本来、著作権というものは、
「知的なアイデアを、
 いろんな人が使えるようにする」
というための制度なんですよね。

所有者を儲けさせることが目的じゃあなかった。

所有者を儲けさせるようにすれば、
みんな、作るようになるだろう、という点では、
所有者についての明記は大事だったのですけれど。

特許の何がいいのかと言うと、
「それがどんな特許であるのかを、
 見ればすぐにわかり、他の人に考えが伝わる」
ということが大事なことなんです。
でも、ソフトウェアの特許にいたっては、
特許の中身がわからなくてもいい。
「中身は秘密だから」と特許を取って、
あとで、「おまえ特許違反だから」と
取り締まられるというのは、おかしいと思います。

ここらへん、
バランスを考えていかないといけない、
という要素は、日本でも出てくるでしょう。
日本で困った問題になっているのは、
「アメリカに合わせろ!」
と、つい、そういう方向に動きがちなところです。
台湾だとかは、アメリカがそうであっても
オレたちはそうする必要はないと言っています。
映画にしても、日本はアメリカのものを
たくさん輸入する側ですから、
国としては却って損をしているはずなのに、
なんで無理してアメリカに合わせようとするの?
と考えることは、ありますね。

ただ、世界的に著作権の考えをそろえることには、
それなりに意味がなくはないんですけど。
もとの国で著作権が切れているのに、
日本では、戦争中に外国の著作権を
尊重していなかったから、保護しようという流れで、
まだ、著作権がつづいている‥‥。
そういう、得体のしれない調整事項は
そろえてくれたらラクなんですけど、
でも、そのことと
「日本も外国並みに著作権をのばせ」
という話とは、違うと思います。


アクセス機会を増やしたほうが売れる?

柳瀬 アイデアのどこからを
財産とみなすのかの考え方は、
あいまいだけど重要だと思うんです。


「アイデアは、
 その人が自分一人で黙っている限り、
 独占的に保持できる。
 でもそれが明かされた瞬間に、
 それはどうしても万人の所有へと向かってしまう。

 そして受け手はそれを所有しなくなることはできない。

 またその特異な性格として、
 ほかのみんながその全体を持っているからといって、
 誰一人その保有分が
 少なくなるわけではないということだ。
 
 私からアイデアを受け取ったものは、
 その考え方を受け取るけれど、
 それで私の考えが少なくなったりはしない。

 それは私のろうそくから
 自分のろうそくに火をつけた者が、
 私の明かりを減らすことなく
 明かりを受け取ることができるようなものだ。
 
 人類の道徳と相互の叡智のために、
 そして人間の条件の改善のために、
 アイデアが人から人へ
 世界中に自由に伝わるということは、
 自然によって特に善意をもって設計されたようで、
 それは火と同じく、
 あらゆる空間に広がることができて、
 しかもどの点でもその密度は衰えることがない。
 またわれわれが呼吸し、その中を動き回り、
 物理的存在をその中に置いている空気と同じく、
 閉ざすことも排他的な占有も不可能になっている。
 つまり発明は自然の中においては、財産権の
 対象とはなり得ない
(『コモンズ』p.154より)」

『コモンズ』において、
こうやってレッシグが引用した、1813年当時の
アメリカのジェファソンの考え方なんて、
まさに、そのとおりだなぁと感じました。
(※ここで言うジェファソンとは、
  独立宣言やアメリカ合衆国憲法の
  起草者のひとりとして著名で、
  第3代大統領のトマス・ジェファソンのこと)


山形さんは、そのあたりをどう考えていますか?
山形

ぼくは、基本としては、守る以前に、
アクセスできるようにしないといけない、
という立場です。

だから、自分の書いたものは
ぜんぶページで公開しているわけですし、
翻訳したものの一部も
どんどん公開していっているわけです。

ぼくの訳した本の中でも、
手に入れにくくなっていものが、
すでにたくさんありますから、
それは、もったいないと思います。
見たいヤツがいるなら、
見られるようにはしてあげたいですから。

そうやりはじめた発端は、
自分で昔に書いたものが、知らないうちに、
だんだん、なくなってしまうということです。
「あのファイルどこにあった?」
というものが、どんどん出てくる。
それは困るなぁという整備の一環ですね。

一貫性のあることをしていて、
あっちやり、こっちやり、とやっていると、
「あ、そういえばあんなことをやったなぁ」
と3年前のことを調べたくなる時があって。
そのためには、どこに何があるのかを
わかっていたほうがいいし‥‥。

ネット上で公開されている

『伽藍とバザール』
(エリック・スティーブン・レイモンド/光芒社)を
翻訳して単行本を作った時に、
「外国語ではネット上で読めるのに、
 日本では本でしか読めないのはおかしい」
ということで、ぼくのサイトに
日本語の文章も公開しました。
それが、そもそも、ぼくにとっての
ホームページづくりの最初ですからね。
自分のスタイルのいちばんの基本は、
そういうところにあるわけです。

ある程度長い文章は、
いちいちコンピュータから印刷するよりも
本で読むほうがよいというのが、
自分の実感としてもあります。
ですから、まぁ、公開することが
かならずしも売る機会を奪うことには
ならないだろうと思っています。

もともと、
世の中にアイデアを公開している人がいて、
その成果を翻訳していたので、
自分のものも公開していく成り行きになった。
考えてみると、オリジナルのアイデアと
その翻訳と、どっちが偉いかと言うと、
明らかに「オリジナル」のほうですよ。
「翻訳したモトのひとが
 アイデアを公開しているのに、
 翻訳者のオレが隠すのってどうなのよ?」
と思いますから。

柳瀬 たしかに山形さんの著作は基本的に、
ご自身のホームページや
連載サイトでオープンになっていますよね。
要は、タダで読める。
にもかかわらず、それを本のかたちにして
有料にして売ると、ちゃんと売れる。
山形 そうなんですよねえ(笑)
柳瀬 これって、
ソフトがオープンになって
誰もがアクセスできるからといって、
同じ内容のパッケージメディアである
「本」の商売の邪魔になるどころか、
ある意味で販促になってさえいる、ともいえる。
いろんなひとがタダで見られる、
というチャンスができることで。

そこで、山形さんの仮説として
伺いたいことがあります。
ぼく自身としては、
山形さんの著作に見られるように、
たとえばインターネットという
「コモンズ(共有地)」に作品を一度公開し、
人のアクセスできる数を増やしたほうが、
結果的には、その「作品」の売り上げが
かえって上がるのではないか、
という仮説が立てられると思うのですが……。
もちろんあらゆる場合に当てはまる、
とは限らないでしょうけど。
それについては、いかがでしょうか?
山形 それは、おっしゃるとおりだとは思います。
まだ、紙媒体の優位性もあるし、
音楽でも何でも、
アクセスできないものに対して
どうやってお金をとるのかというのは、
むずかしい話ですよね。
だからこそ、みんなレコード会社は
ラジオにお金を払ってでも
曲をかけてもらうわけで。

ある程度のアクセスを保証しないと、
需要が出てこないというのは、
まちがいないことだとは思います。
商品そのものが、売れなくなるということを、
みんな心配していますけれど、
それが本当かどうかは、実はわからない。
実はウソだろうと思います。

いまの著作権強化の動きというのは、
下手をすると、利益を守ろうとするあまり
アクセス数を減らしてしまうかもしれない
危険な動きだとは、考えています。
柳瀬 難しい問題ですね。
新しいものをつくる人の
著作権や特許の概念は確かに大切です。
けれども、根本的な疑問として、
人が「新しいものを創造しよう」という時の
動機づけとして、著作権だの特許権を強化して
「おカネがいっぱい手に入るぞ」
というものがどれだけ大きいのかなぁ、
というのがあります。
アメリカではその考えが肥大化して、
ビジネス特許が典型ですけれども、
ものすごいお金が動くようになっていますよね。
日本でも青色発光ダイオードの発明者である
中村修二さんが、
発明時に勤めていた会社を訴えて、
特許問題がクローズアップされていますが。

ただ、動機の問題って、
もっと、個人的なのではないかと思うんです。
もちろん、
お金はいっぱいあったほうがいいけど、
お金による動機に寄りかかりすぎると、
手段と目的がごっちゃになってしまうのでは、
と思うところが、ぼくには、あるんですが……。

そのあたり、山形さんはどうお考えでしょうか?
山形 実は、それについては
いろいろな研究があります。
『競争社会をこえて』
(アルフィ・コーン/法政大学出版会)
などがそのひとつだと言えますね。

子どもたちを集めて絵を描かせる時に、
「絵を描くことそのものがおもしろい」
「おまえ、おもしろいからもっとやれ!」
だとか、絵を描かせることそのものに
動機を与えてものを描かせる時と、
「これを描いたらおこづかいをやるぞ」
だとか、お金やモノを動機にして
絵を描かせる時とでは、
明らかに、モノで釣るほうがデキが悪い。
柳瀬 (笑)なるほど。
山形 好きだから作ってるっていうほうが、
圧倒的に質のいいものができるというのが、
そのコーンという人の主張です。
それがどこまで実験的に正当化されるのかなど、
細かい突っ込みはあるんだろうけれども、
たぶん、そうなんだろうなぁと。
自分でも、アイデアが浮かんで
一生懸命にものを書いている時には、
「それがおもしろい」
と思って突っ込んでいるわけです。
「これを書きさえすればもうかるぜ!」
となっているわけでもないところがありますよね。

青色ダイオードの中村さんも、
きっと、開発している時点では、
儲かるからやっていたわけではないわけで。

ボブ・ディランにしても、当時は、
「食ってけりゃ、それで充分だと思ってた」
と言っていたわけでしょう。
実は彼は最近の著作権延長の裁判なんかに出て、
「当時オレとしては、
 著作権が死後50年だったら作らなかった。
 70年になるだろうから作った」
だとかわけのわからない証言をしていて。
‥‥ウソつけよと(笑)。
柳瀬 (笑)
山形 そういうことを言いだしてみると、
最近のボブ・ディランの曲はつまらないなとか、
そう言えるかわからないんですけど‥‥。
それはさておき、実際、必ずしも、
お金に関係ない動機もあるわけです。

ただひとつ、言わなければならないことは、
映画だとか、お金のかかるものに関しては、
ある程度の見返りが確保されていなければ
作られないという事実があるわけですから。

彼らがやる気だけで作れるかというと、
自主制作映画ならまだしも、
超大作映画は無理でしょうから、
ある程度のバランスが必要でしょうけどね。
でも、お金を釣り上げただけでは
いいものが作られないでしょうし‥‥。

それよりなにより、
いま、すでに死んでいる人の著作権を
20年のばすことに関しては、
誰にとっての動機づけにもならないだろうと。
著作権料をあげるのは、それはその人がこれから
また作るでしょうという想定があるからですけど、
死んだ人の著作権を20年のばしたところで、
彼の作品が新しく出てくることはない。

著作権を強化したことによる見返りを
理屈としてもっとちゃんと出せるのならいいのですが、
そうでない部分が、あまりにも多い。

「これからやる人に20年追加すると
 やる気が起きる場合がおおいから、
 もう死んだ人に関しても20年延長しましょう」
という、ヘンな議論になっている。
そこが、おかしなところなのでしょう。
いろいろな人が、意図的に
混乱させようとしているところだとも思いますし。

プロジェクト杉田玄白

柳瀬 とはいいつつ、
世は市場経済が前提として動いてます。
そしてもちろん、個人のアイデアだとか
著作権だとかを保護することは大切です。

かといって、そういった
創造の産物を社会の共有財産とする、
という側面をきっちり残しておかないと、
次世代が何も創造できなくなってしまう。

アイデアをどう保護するのか、
アイデアをどう共有財産にするのかという
枠組みや知恵が、求められているんだと思います。

『コモンズ』でも、レッシグが
とまどいながらこの問題を書いています。
「市場経済性を維持しつつ、レッシグが
 『規制をさせすぎないように規制をする』
 と非常に苦しみながら主張している点」
について、山形さんなりの補助線を
見せていただいた上で、うかがいたいのですが。
山形 結局、考えなければいけないのは、
著作権の法律が20年か50年かということだとか
細かい文脈ではなくて、社会全体として
何をしたいのかということなんですよね。

社会全体として、
知的財産なりなんなりを、
どういうふうにとらえていくのか、
どこまで保護するのか。そういう話ですよね。
その場合、ある程度の保護を、
どういうように確保していくか‥‥。

見返りをあげることは、正しいでしょう。
ただ、一方で、人がそれにアクセスできるように
しないと、せっかく作った知的財産の意味がないし、
知的財産がどんどん消えていくので、
そこをどうバランスを取っていくのかが
大切になってくる。

レッシグが言っていることは、
規制にもいろいろあるけど、ひとつは
「法律で『違法コピーはいけませんよ』
 と規制しつつ、一定期間をこえたら、
 みんなの共有財産にする」というかたちです。

もうひとつ、
「規範として、社会的通念として
 違法コピーはいけないけれども
 みんながアクセスできることはいいことだ」
という価値観を広めていくというやりかたがある。

そしてさらにもうひとつ、
「市場を使って、
 ある時は値段を高く、ある時は安くということで、
 それによってアクセスと利益のバランスを取る」
というやりかたですね。
一応、市場原理ということで、適正価格というのは、
最大多数の人がアクセスできて、
利益が最大化するところに落ち着くはずで‥‥。

そして最後にもうひとつ、
技術で制限をかけるということがある。
これが非常に問題になっているわけです。
完全に保護できる技術ができつつあるし、
一方でインターネットや何かで
違法コピーを助長する仕組みもできています。
まぁ、インターネットは、それと同時に
アクセスを助長するものでもあるのですけれど。
ただ、いろいろな形で、技術経由の各種の規制を
法律が強化して、アクセスできないように
してしまうという状況が起きている。

人を殺したいと思った時には、
可能性としては、法律でいくら禁じられていても
ふつう、誰でも殺すことができる。
しかし、具体的に体が閉じこめられていたら、
何もできなくなる。技術でしばるというのは、
体が箱の中に閉じこめられるようなものなんです。
「物理的な障壁」なんですから。

もしも、バランスを考えないといけないのなら、
「いけない」と言いつつなんらかの方法を
残しておくことが必要になります。
テクノロジーでの規制だと、できないとなると
圧倒的にできなくなってしまいますからね。
「抜け道を作れ」と言わなければいけない、
というのが、レッシグの主張です。


現在おこなわれているのは、
規制をなるべく完璧にしよう、
コピーコントロールを完璧にして、
それを解読しようとするやつは逮捕だと、
そういう流れなのですが、それはおかしいと。

コピーを解除することは禁止されていても、
その仕組みを研究する自由はあってもいいし、
検閲用ソフトがあったとしたら、
どういう検閲をしているかどうかぐらい、
調べる自由がなければいけない。
「規制するなら、その規制内容は
公開されなければいけない」
だとか、いくつかのバランス原則が要る。
テクノロジーにはその原則がいまのところないので、
それを作れと言わなければならないと。

「これ以上締めつけてはいけない」
という規制だってあるんだ、そしてそれを
やらなければいけないというのが、彼の議論です。

コピーコントロールCDについても、
メーカーがもしも保護したいのなら、
それはもちろん保護する自由はあると思いますが、
その保護の内容を研究する自由をつぶすまで
やるのは、行き過ぎではないかということですね。
何をやりたいのかを、
バランスをとって考えていかないと、まずいよと。

アメリカでは、過去数十年で、
法律と経済学との関連が大きくなっています。
罰金をいくらにするということについても
経済学的な分析が入れられた上で決定されている。

世の中、犯罪がなくなるということが
よい目標ではあるのですが、それは無理だから、
「そこそこ犯罪がなくなりながらも、
 ちょっと泥棒だからといって死刑だと行き過ぎ」
みたいなバランスを考えないといけないことが、
割ときちんとなされているんですね。

社会的な規範として存在していることについては、
いちいち法律でしめつける必要は
ないという議論だったり‥‥。
相手の体が自分にちょっと触った、というだけで
裁判になる社会っていうのは、それはヘンですから。

テクノロジーの分野でも、
そういうことが考えられてもいいのでは、
というのが、レッシグの主張なんですよね。

インターネットでは、どうやらコピーばかり
されてしまうようだから、コピーを締めつけると、
コピーしても構わないよと言っているものも
複製使用することができなくなってしまう‥‥。
柳瀬 山形さんがいまやられている
「プロジェクト杉田玄白」は、
今回のレッシグの著作にも関係があるし、
ぜひ、「ほぼ日」読者の方にも紹介したいんです。
ちょっと、お話をしていただけますか?
山形 あれは、フリーな翻訳プロジェクトです。
著作権の切れた日本の小説は、
オンライン化されていますよね。
ただ、翻訳作品に関しては、
原著の著作権が切れていても、
翻訳者の著作権がありますので、
いま、たとえばシェイクスピアだの
エドガー=アラン=ポーだのの著作権は
切れていますけれど、
小田島雄志さんの著作権は残っている。
だから、公開はできないことになっています。

それと、困ったことに、少なくとも
この数百年の日本語の変化は、
英語や他の外国語よりもすごく速い。
ぼくはいま、17世紀のアダム・スミスの本を
英語で読んで
「ふーん」と思うことはできますが、
いま、日本語の17世紀の本を読んで
わかるかと言うと、わかんねぇよと。
明治時代に書いた人の言ってることだって
よくわからないところがあるし、
戦前の人の書いたものだって
えらい古くさいものに感じるわけです。

この先の日本語がどうなるかわからないけど、
いま著作権が切れている重要な著作というものを
紹介するということは、やっぱり、
国家的にはいいんじゃないかと思うんです。
日本は翻訳輸入文化だとも言われていますし。

やはり、文学史で、漱石だ芥川だと学ぶように、
シェイクスピアだったりニュートンだったりを
翻訳するということには意味があるのではないか。
文語文で公開しても古くさいですから、
「じゃあ、翻訳者としては
翻訳したいからするだけですから、
あとは自由に使ってください」
と公開していくのが、「プロジェクト杉田玄白」です。

ぼくはこれまで、フリーソフトウェア関連の
文章を翻訳してきた時も、
常にそうして公開してきました。
それには、いいことがあるんです。
ぼくが翻訳したいくつかの解説書は、
そのまま市販のソフトウェアに
パッケージングされる時に使われたりして、
けっこう多くの人に広まります。
それと、公開されていろんな人が
自由に使えるということなので、
人がまちがいを指摘してくれるんですね。
ほとんどが「誤変換」程度の指摘ですが。
ただ、それによって高速の改良ができる。
そういう予想しなかったメリットもあります。

それと、世の中には、
実情を知らないからだと思いますが、
翻訳者というものに憧れている人も
けっこういることになっているので、
「じゃあ、やってみなよ」と。
「やってくれる人の
集まる場であればいいんじゃないの」
ということではじめたのですけれど‥‥。
柳瀬 今のところ、
テキストの数は、いくつくらいですか?
山形 200ぐらいですね。
柳瀬 おお、もうそんなに!
山形 使われ方に文句を言わないということで、
人工翻訳の研究に使われているようですし、
論文の中で使っていただいてもいいわけですから。

好き勝手に切りきざんでもらうことで、
いろんなことが可能になりはじめていますよ。


(おわり)

柳瀬さんへの激励や感想などは、
メールの表題に「柳瀬さんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ろう。

2003-01-04-SAT

HOME
ホーム