匂い立つもの

ヨシタケ
よく言われるんですけど、ぼくの絵本って、
読み聞かせにぜんぜん向いてないんですよね。
糸井
どれもそうですね、
1冊をある速度で読み通す絵本じゃない。
で、ストップしても全然かまわないですよね。
途中でやめて、また好きなときに読みはじめて‥‥、
みたいなことができる。
ヨシタケ
まさにそうで、誰かに読んでもらう本じゃないんです。
ぼく自身がひとりでニヤニヤしながら読むのを
想定して作っているので。
読む順番とか、どこを読むか読まないかとか、
人に決められないタイプの本なんです。
糸井
あのマンガを思い出したんですよ。
小泉吉宏さんの『ブッタとシッタカブッタ』。
あの人も、筑波の人たちに通じる
図としての絵が描ける系統で、
「哲学を広いところで考えましょう」という意図で、
マンガという手段を選ばれているというか。
ヨシタケ
そうですね。
糸井
でも、そういう人がいたのは知ってるけど、
このヨシタケさんという人は、
なんだかすごく追い詰めてるなと思ったんです。
主人公を旅にも出さないし、頭のなかで完結してる。
密室芸ですよね。
これを絵本で出したこと自体が、
すごいと思ったんです。
ヨシタケ
ぼくにはほんとうに
「世界をまわって、いろんな人に出会って、
世界や人間のすばらしさを謳いあげる」
みたいな絵本はぜったいできないんです。
それは、やったことがないから。
海外とかも行ったことなくて、
まさに井の中の蛙なんです。
糸井
でもその井戸は、広い井戸ですよね。
ヨシタケ
そうですね。
自分の井戸だけはもうずっと見てきているので、
いくらでも説明できます。
だからもう自分は、このままその枠の中で
生きるしかないなと思うんです。
結局外に出てないし、人の意見も聞いてないし、
自分の井戸のことしかわからないので。

だけど
「でも、なんだかあいつの話を聞くと
井戸に入りたくなるんだよね」
とか、
「ちょっと『井戸もいいよね』って
思えてくるんだよね」とか、
そんなふうに言ってもらえれば、
自分にとっては勝ちなのかなと思うわけです。
糸井
そこをのぞきこんだ編集者が、
はじめてその井戸に顔をのぞかせた人ですよね。
ヨシタケ
そうですね。
糸井
だけど、編集者もよくついてきてるというか。
要するに、世の中にこれだけ絵本があるなかで、
アンチ狙いじゃないのにこれを出すというのは
「誰が読むの?」ってことだから。
ヨシタケ
ほんとうにそうなんですよ。
あと、なんでしょう‥‥密室芸という意味で、
ぼくのなかのいちばんのヒーローは、
ヘンリー・ダーガーで。
糸井
ああ、好きでしょうねえ。
ヨシタケ
彼の絵が好きなわけじゃないんです。
彼の人生のストーリーが好きで、
ヘンリー・ダーガーになりたかったんです。
一生掃除夫をやって、誰かに評価されたいとか
自分を見せたいとかじゃなくて、
作りたい作品を作り続けた。
辛くてやってたのか、たのしくてやってたのか
わかんないけど、
でも「やっちゃってた」っていう。
あのストーリーにたまらなく憧れるわけです。
病は深いんですよ(笑)。
糸井
はぁーっ、そうですか。
ヨシタケ
ダーガーみたいになりたかったし、
今もなりたいんですけど。
ただ、もう無理なんですよね。
これが仕事になっちゃってるんで。

‥‥とはいえ彼みたいな「やっちゃった感」には、
いまもやっぱりすごく憧れがあります。
糸井
「やっちゃった感」ねぇ。
ヨシタケ
何をするにも疑って疑って、
逃げて逃げて、諦めて諦めてきた人間って、
ああいう「やっちゃった感」に
勝てないことを知っているんです。
だから「ああいうふうになれたらいいなあ。
たのしそうだなあ」って、心底思うんです。
糸井
つまり、異常なまでに社会性を
研ぎすませてきたこどもは、
「自分には主観がないんじゃないか」ということに、
さまようわけですよね。
そうしたら、主観しかない人をみつけるわけで。
ヨシタケ
そうです、それがダーガーで。
糸井
ちょっとだけ似た人に、
ボロッボロのカメラでずっと
女の人を覗き見してた人、いましたよね。
ああいうのって、
ほんとうに写真がよくなっちゃうんですよね。
ヨシタケ
何かやっぱり「匂い立つもの」が
出てきちゃうじゃないですか。
糸井
あぁ、「匂い立つもの」。
それは、今生きてる人がみんな、
ほんとに欲しがってるものだと思いますね。
たとえばテレビで
マツコ(・デラックス)って人が人気がある。
あれは社会性を忘れずに主観を喋るからですよね。
それは有吉(弘行)くんもそうだし。
ヨシタケ
そうかもしれないですね。
糸井
その前はおすぎとピーコだったり、
「バカキャラ」と言われる女の子だったり。
いま、周りに照らしあわせずに
主観をしゃべる人が足りないんで、
それをテレビで見せてるわけです。
で、社会全体に主観がなくなってきちゃったんで、
ヨシタケさんみたいに、そこを磨き込んで、
社会工芸作家みたいになる人もいて(笑)。
ヨシタケ
だけど本が売れたとき、
ぼくはほんとうに驚いたんです。
自分がやってたことって、もともとまったく
人に見られることを意識してなくて、
自分が思ったことを外に出したいという、
ひとりカラオケみたいなものなんですよね。
そういうへりくつであり、自問自答の思考であり。

そういうものを人が見たときに
「わかるわかる」と言ってくれたときに
「そんなバカな」ってやっぱり思うわけですよ。
「え、ほんとに?」みたいな。
糸井
吉本隆明さんから、それと似たような話を
聞いたことがあるんです。

かつてぼくが
「吉本さんはどうして
詩を書くようになったんでしょう?」
って聞いたことがあるんです。
そしたら吉本さんが
「やっぱり慰謝じゃないでしょうか」
と答えたんです。

「自分の詩は、上手とか下手じゃなく、
自分を慰めるという意味で書いたのが
おおもとだと思います。
表現というのは、やっぱり根っこに慰謝があって、
そこからはじまるものではないでしょうか」
とおっしゃって。
それを聞いてぼくは、
けっこう腑に落ちた気がしたんです。
表現ってやっぱり誰のものでも、
そのスタートのところに自分を慰める何かがある。
ヨシタケ
あぁ、そうかもしれないですね。

(つづきます)
2017-05-19-FRI