糸井重里の 「喩としての聖書──マルコ伝」の 聞きかた、使いかた。
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『吉本隆明 五十度の講演』喩としての聖書──マルコ伝 より

第2回 デメリットを知っている強さ。
こんにちは、糸井です。
1回、2回と経て、
聖書を思想書として読んでみると
さまざまな考えが込められていることが
浮かび上がってきたと思います。
今回は
04 聖書の思想のいちばん大切なこと
として、吉本さんがお話された部分を
聞いていきたいと思います。

ここの部分では、
近親者や同信者について
吉本隆明さんが語っています。
イエスの最期に近いところですね。
おまえの兄弟であろうと、おまえを裏切って、裁判所に渡したり、長老のもとに渡したり、そういうふうにおまえを裏切ることがあるだろう。
「近親憎悪」という言葉がありますよね。
自分の近くにあったり、自分に似たものは憎い。
人間にとって、
もっとも大きく困難な裏切りは、
おそらく近親から出てくるもので、
いちばん注意しなければいけないのも
近親者や同朋者であるのです。

これって、かなり恐ろしいことだと思います。
だって、はっきりと「敵だ」とわかっている人より
近くにいる人のほうに気をつけなくてはいけない
ということなんですから。
敵よりもスパイの裁判のほうが厳しかった、
といわれるのも
そういうことで説明できますね。

これが記されていることでわかるとおり、
マルコ伝では、
「われわれの教団に入ったらみんな友達ですよ」
なんて、調子のいいことは言っていないのです。
近親者に気をつけろ、同信者に気をつけろ、
それをみんなに言っておきましょう、ということです。
これはすごく人間理解が深いことです。
また、同時に、聖書は
思想をここまで強固に語ってるんだ、
ということに気づきます。
キリスト教が「信じる」ということで
すべてを曖昧にしていないところが、
のちに世界宗教になる
すごみのひとつだったのでしょう。

そして、イエスは聖書の言葉どおり
夜が明け、にわとりが鳴く前に
弟子たちに3度否まれます。
イエスがまさに12人のひとりであるユダの訴えによって捕まって、十字架にかけられるわけです。それを見るために群衆がいるわけですが、その中にペテロは隠れて潜んでいます。そうすると、大司祭の下女がペテロを見つけて「おまえはナザレのイエスにいつでもくっついてた人じゃないか」と言うわけです。するとペテロは「いや、そうじゃない。私は知らない、あの人を知らない」と言うわけです。
信じるというだけではすまさない、
イエスの最期のところでも
そこを取り出して描こうとしているんですね。

前回から振り返ると、
・社会としての私、親しい人の前での私、
 個人としての私というものがあり、
 どれがほんとうというわけではなく、
 すべての領域に立っている、それが人間である。
・近親者の裏切りは、ありえることである。
という流れです。

ですから、正しい、信じていることのためには
何をやってもいいし何を犠牲にしてもいいんだ、
ということは、
実はとても危険なことだとわかります。

自分のなかにはいろんな領域があるし、
いくら信じていたって裏切ることがあります。
どんな場合でも、それは両方正しいし、
両方自分であり、両方重要です。
吉本さんも、
ひとつの「正しい」ことのために
何をしてもいいというような発想は
間違いなんだということを、
徹底的に研究していかれたかたです。

大勢で何かをやる場合、このあたりのことは、
認識しておくといいと思いますし、
取り入れている企業や団体もたくさんあるでしょう。

「そうだ!」という実感に近いことの大事さと
真実に近いことの大事さがある。
キリスト教は、このことをちゃんと伝えていかないと
みんながブレるな、と思ったし、
そうじゃないとこの宗教がダメになるな、と
数千年前におそらく考えたのでしょう。

福音書としてこの「3度否む」を読むときには
「そのくらいありうることだから
 覚えておくといい」
あるいは
「そのくらいで翻る信仰というのはどうか?」
ということになります。
しかし、思想書として読み取ると、それは
「人間はそういうものだ」
「そういうことがあっても進め」
ということになるでしょう。
こういう認識が何千年も前にすでに、人間性についてなされているということは、まことに思想として見事というよりほかないわけです。何千年経っても古びない言葉を吐くことは、人間にはなかなかできないのです。人類というものはそういう人間をそんなにたびたびは生むことはできないのです。どんなモダンなことを言っている現代の人にも通用するでしょう。単純なようですけども見事な洞察だということができるわけです。
これは、なかなか思想として言うことは
難しいことなんです。
そこを、マルコ伝の作者は
オリジナルの思想として言葉に残している。
それはすごいことだぞ、ということを吉本さんは
ここで強くおっしゃっています。
ともすれば「単純で」と
バカにしたりすることに対しても、
激しく釘を刺していますよね。
いやぁ、カッコいい!
ここで、大向こうの「吉本!」みたいな声が
かかるところですね(笑)。

この部分は、吉本さんが、
ご自分でやってきたことと重なるでしょうから、
これを発見したところまでの道のりが
吉本さんにもあったわけです。
これを思想として語るのは
そんなに簡単ではなかったはずです。
けれども、吉本さんはずいぶん早い段階で
ここにたどり着かれました。
吉本さんは、ご自分のことを
秀才的に語ることが多いんですが、
こういう部分では天才だとぼくは思います。

さて、マルコ伝は次の段階に進みます。
これまでは、人にスポットが当たっていましたが、
いよいよイエスは自分自身を信じているか、
という問題に直面していきます。
次の
05イエスも自分自身を信じきれなかった
のところに、こんな部分も出てくるんですよ。
イエスは、死ぬほど心が憂鬱になっているこの状態を早く過ぎ去らせてください神様よ、と言うのですが、私の思いどおりに過ぎ去らせてくれとは言わない。神様よ、あなたの心のままにしてくださって結構だ、と言います。
ここは、イエスが仲間たちから離れて
ひとりで祈る場面です。
「私はこうしてほしい」という願望が
まずありますが、最終的には
「あなたの心のままにしてください、神様よ」
と言う。
これは、真剣で誠意ある、最終的なお願いの
見事な形を描いているとぼくは思います。
プロポーズもこれとおなじですよね。
私はあなたと一緒になりたいし、
それはもう心から思うけれども、
最後はあなたが決めることで
それに従います、ということでしょう?
神様への祈りと、誠意を持ったお願いというのは
共通するところがあるんですね。
逆に考えれば、人間とのあいだで
誠実な願いというのが存在するからこそ、
作者は神様への祈りにつなげるということを
考えついたのかもしれません。

つづきは月曜日です。
土日の間にお時間があれば、
この「喩としての聖書──マルコ伝」を
ダウンロードして、
ひととおり、聞いてみてください。

(つづきます)

2010-02-05-FRI