『中国の職人』塩野米松

4の巻 喩湘蓮ユイシャンリェン(恵山泥人形師)

録音日 2011年9月22日・23
録音場所 中国 無錫むしゃく

無錫むしゃく市は、観光地として有名な太湖の北岸にある。恵山区は無錫むしゃくの西端、ここでは古くから農民達の土産や子供の玩具として泥人形が作られてきた。恵山には100を超える祠堂がある。先祖を敬う国民性もあり、多くの観光客が訪れる場所である。

太湖はかつて東シナ海の一部だったが、長江と銭塘江せんとうこうが運んできた土砂が溜まり海と切り離されて出来たという。恵山の土は人形作りに適していた。きめ細かく粘性があり、形を作りやすく、乾くと固く、崩れなかったし、脆くもならなかった。風土が作り上げてきた土なのだ。恵山地区の人達はこの土で人形作りを続けてきた。多くの手仕事は、素材に恵まれた場所で生まれ、磨かれた技が原資となり、更に繁栄して受け継がれていく。恵山の土はそれにあたる。

恵山では土をこねて作った人形を「泥人」というが、この文では「泥人形」と日本人に馴染みの言葉にした。ちなみに泥人を作ることを泥人工藝という。恵山の泥人形は型に入れて作る方法と手捏ねの方法とある。仕上げは焼かずに陰干しして彩色、物によっては小道具をつける。数百年にわたって受け継がれて、工夫を凝らされてきた技法だ。型に入れて作る人形は「阿福」「阿喜」という福と幸せを呼ぶ子供の人形や虎や牛、猫などの動物、子供の遊び道具の簡素な物などで、手捏ねの凝ったものは京劇の登場人物で、名シーンの姿を再現したものである。

喩湘蓮ユイシャンリェン師は手捏ねから彩色まで一人でこなすし、人形だけではなく仏像や観音像などの彫像も手がける。ユイ師の後に紹介する王南仙ワンナンシェン師は彩色と装飾、小道具作りが専門。同じ合作社で学び、後年になって二人で組んで仕上げることが多くなったそうだ。二人とも国の工芸美術大師(日本の人間国宝にあたる)である。王師の話は後に譲る。

泥人形は農民用の玩具や縁起物が主であったから、紫砂の茶壺のように競って買う愛好家や投資の品にはなっていないので、人間国宝になったからといってお金持ちになるわけではない。地道に人形を作り、後継者を育てる。それが役目だと思っているとユイ師は話す。

ユイ師の工房は無錫むしゃくの郊外、大きな運河の側にある。夫が工場から与えられたかつての住宅を工房にしている。ユイ師の工房は2階建ての集合住宅の中のひとつ。トイレは共有で外にある質素な住居だ。1階に大きな作業台を置き、椅子に腰掛けて粘土を捏ねていく。幾つものヘラやナイフなどの道具が並んでいる。話しながらも手は動き、土の塊が役者の腕になり、ヘラで切れ目を入れ、指先で曲げ伸ばすと、女の人のしなを作った指先になる。話しながらも手は休まない。作った人形の指先を出来上がるとまたつぶし、また作る。鮮やかで素早く、指先だけで人形本体の姿を思い起こさせる見事さだ。

日本で出会ったシノダケ細工のおばあさんが言った言葉を思い出した。「私の手は嘘をつかないの。どんな時も、違う材料からでも寸法も形も変わらないよう物が作れるように訓練してきたんだ」。修練を積んだ手は生き方そのものなのだ。

ユイ師は初めは自分の過去はあまり喋りたくないし、取材は出来るだけ断っていると渋っていたが、日本から来てくれたのだからと長時間のインタビューに答えてくれた。

原稿を整理しながら気が付いたのだが、確かに表に出したくない陰の部分もある。身分や出生、親の仕事がずっとつきまとうこの国では、話せば災いを呼ぶかもしれないし、そうやって痛い目にもあってきたのだ。

インタビューが長引き、途中で昼ご飯をご馳走になった。糖尿病の気があるという彼女は私と通訳の劉偉に、たくさん食べろとよそってくれる。そして昼食の後には必ず昼寝をするのだというので、一旦休憩し、また話を続けてくれた。さらに翌日、早朝には自分の母の家があったという古い町並みを案内してくれ、名物の朝粥を振る舞ってもらった。

喩湘蓮ユイシャンリェン師の話を聞こう。

『父は国民党の軍医だった』

1940年1月9日生まれです。旧暦です。今、数え年で72歳。

私は辰年。あなたは? いのしし。辰年はいのししと仲良いの。私のお母さんもいのししですごく仲が良いし、弟子の一人もそうで、すごく仲良いんですよ。だからかね、あんた達が話を聞きたいと来た時に断らなかったの。今までね、テレビ局の取材とか全部断ってるの。

黄先生の紹介もあったし、あんた(通訳の劉偉)と電話で話しても、私は全然躊躇しなかったんですよ。スムーズに受けました。普通は、電話来ただけでも断ってるんですよ。忙しくて、時間ないからね。

私の話は多分面白いと思いますよ。いろんな時代も経験してるし、さまざまな事件に巻き込まれてますから。

私は恵山というところで生まれたんですよ。恵山泥人形というので有名な恵山。この部屋(工房)は、無錫むしゃくの市内から見ると、恵山の郊外になるんですよ。ここは、私が嫁いだ先で、旦那の工場がくれたところなんですよ。

私が6歳の時に、父親が亡くなったんですよ。喩克信と言いました。国民党の軍医だったんですよ。それで、私は、母方のお祖母ちゃんに育てられたんです。そのお祖母ちゃんが住んでたのが恵山なんです。母親も恵山の人です。

父は1946年に亡くなったんです。抗日戦争が終わった次の年です。結核でした。生きていれば蒋介石と一緒に台湾に行ってたかもしれないね。父が亡くなったので、47年に母親に連れられて恵山に戻ってきたんです。

母の実家は、人形を作る家だったんです。母親もそう。母親のお父さんも。母親のお父さんのお父さんもみんな人形作り。私は、計算すると恵山人形作りの5代目です。家譜が残ってないから、4代目と計算されてるんですけど、本当でいうと5代目です。

私は兄弟はいないの。一人っ子です。正確に言えば、妹がいたんですけど、小さい時に亡くなったんです。

父は亡くなった時40歳ちょっと過ぎでした。母親と父とは十歳以上も年が違うんです。母親は17歳で結婚したんです。父は軍人だったから結婚は、遅かったんです。それで、私が産まれたんです。

軍医の娘だからって、いいことはなかったですよ。

抗日戦争を8年もやったから、とんでもない生活ですよ。ご飯もお腹いっぱい食べられないし、逃げるばっかりでね。

私の名前は、喩湘蓮ユイシャンリェン。毛沢東の故郷。湖南省の漣水レンスイ村で生まれたんですよ。名前はその地名から取ったんですって。

私達は軍隊と一緒だったから、ずっと逃げ回ってたね。兵隊はずっと歩いてましたから、私達もくっついて歩いてるの。一緒に戦争やってるみたいなもんなんですよ。

その時はお祖母ちゃんも一緒だったんですよ。お祖母ちゃんが家で私の面倒みて、母が軍医の父の助手でした。

怪我人を救助したり、手当てをしたり。もうね、中国を半分ぐらいも歩いて回ったんですよ。河北省から湖南省まで。行った先々で民家を借りて、そこが病院になりました。そこでさまざまな医療をしたんでしょうけど、私、まだおっぱい飲んでた年だったから、どういうところに住んで、何をしたのかは覚えてないんです。

父は、貴州省の貴陽で亡くなったんです。そこから恵山に帰って来る時のことは覚えてますね。父は、最初は日本軍と戦って、その次は八路軍と戦ったのかな? それは、ちょっと覚えてない。きっと戦ってたのかもしれないね。上の命令でやるわけだから。

父が亡くなって、恵山に戻って来る時に、ちょっとお金をもらったんですよ。それは、遺族年金みたいなもんなんだけど、国民党からもらったんじゃなくて、どうやら共産党の人達がくれたんだね。募金したお金をもらったような気がします。でも、それは確認のしようがないから、国民党からなのか共産党からなのか、最後までわからなかったですね。

ただ、私は、自分が国民党の軍医の娘であることで、文革中にずいぶん酷い目にあったから、身に染みてわかっています。だから、政治のことは、あんまり喋りたくない。だから、そういう話は止めましょう。それは、もう上の人達のことだから、我々百姓は関係ないですよ。そういうことで、父が亡くなったので、お祖母ちゃんと母が私を背負って恵山のお祖母ちゃんの家へ帰ったんです。

『泥人形作りの家』

恵山のお祖母ちゃんの家は泥人形作りの一族でした。

泥人形の仕事は、ふたつに分かれるんですよ。自分でデザインして創作する人達と、誰かに型を作らせて複製する人達です。

私の母方のお祖父ちゃん、母のお父さんは、自分でデザインして作る人でした。 私は、お祖父ちゃんの仕事の継承者です。母もそのお母さんも、型で複製をする仕事でした。ですから、1軒の家に両方の人形作りがいました。

お祖父ちゃんは、恵山泥人形の世界では、非常に有名な人だったんですよ。

お祖父さんの名前は、蒋金奎ショウキンカイ

名字が違うのは、母のお父さんだから。お祖父さんは1898年生まれ。母は1922年生まれ。お祖父さんは79歳で亡くなりました。

恵山の土は人形作りにいい土なんです。こうやって捏ねておいても、伸ばしても崩れたり、倒れたりしないんですよ。粘りがあるんです。他の泥だと放っておくと垂れてくるのに、これは、垂れてこないんです。少し伸ばしても垂れない。普通の泥は、こんなことは出来ないです。粘りがあって腰が強い。

これは、田圃から取るんですよ。表面ではなく、3尺ほど掘ったところの土を使うんです。それは、今でもまだあるんです。

この土にも作り方があるんですよ。

田圃から土を運んで来て、自分の家の庭の近くに、お墓の饅頭みたいなものを作って、その上に藁で編んだむしろを掛けて1年間寝かせておくんです。「隔年の土を使う」というのがこっちの言い方なんです。その間に乾燥したりするといけないから、顔洗った後の水を掛けたり、野菜洗った後の水を掛けたりします。でも、洗濯の水は掛けてはいけないんです。

次の年になったら、その饅頭に盛った土に穴を掘って中から取って使うんですよ。その時に固い板の上に置いて、叩くんです。叩いてひっくり返し、叩いて、何度も何度も捏ねるんですよ。捏ねて、捏ねて、捏ねて、光るまで捏ねるの。

15歳ぐらいからこういう作業やらされてました。その後、甕に入れて、また更に寝かすんです。甕に入れるのは、水分を保つためです。それで、使う時にそこから取って使うの。甕に入れる時も、乾かないように布を濡らして包んで入れるんです。

今でも土がたくさんあるのは、宜興ぎこう紫砂しさ(世界的に有名な急須。この聞き書きに登場する)みたいに売れてないから、作る人がそんなに多くないからです。ですから、恵山には材料の土はまだあります。

(机の上に2種の土があった)黒いのと茶色いのは、土や取った場所が違うんじゃなくて、焼くと黒になるんです。私は全部焼いてます。

今、ほとんどの人は焼かないねえ。焼くと水にも強いの。焼かないと、このままでは溶けちゃうから。でも、焼くと、コスト高になるからね。今の人は、この作品を作って何年保つかって誰も考えないんです。早く作って早く売ればいいとばっかり思ってるから。

焼けば、水にいくら漬けても溶けない。焼くのは窯で600度で1日半。

『恵山には2種類の人形がある』

人形にも2種類あるんですよ。ひとつはお芝居の人形とか創作物。もうひとつは複製品の阿福人形(ふくよかな女の子の人形で、福を呼ぶという縁起物)や動物の人形などです。創作ものは、塩や米の商人とかお金持ちの人が冠婚葬祭の時に買うんですよ。阿福とか猫や牛の人形は農民が買っていきます。それは福をもらいたいから買っていくんです。牛の人形は、豊作を祈って買っていく。この辺は蚕を飼ってるんですが、鼠は蚕の敵なんです。猫は、それを防いでくれるから猫の人形を買っていくんですよ。子供の遊び道具でもありますし。いろんな人の需要に合わせて、作ってきたんです。

注文が来て作る場合もあれば、作っておいて買いに来るのを待つのもあります。

うちのお祖父ちゃんやお祖母ちゃんは、畑も持っていました。農繁期には畑仕事して、農閑期に人形を作っていたんです。それでも、中心は人形作りです。上手だったし、得意だったからね。おかげで、収入があったから、そこそこの生活が出来てたんです。

こういうのは、農民とは言わずに専業戸(せんぎょうこ)と言うんですよ。人形専業戸とも言います。

私達の村は「恵山鎮」と言うんですが、恵山鎮は、当時100戸ぐらいですが、どの家もみんな泥人形を作ってました。

恵山の村は、500年も前から人形を作っていると言われています。だけど、絶対500年よりもっと長いですよ。

清の時代に既にこういうキチンとした京劇の人物とか、そういうのも出来てるんですよ。だから、明の前から始めてるんですよ。

広東省に芙蓉というところがあります。そこにもこれに似た人形があるの。伝説によると、恵山から一人の職人が向こうに行って教えて、それで普及したらしいんです。なのにね、向こうは800年の歴史と言ってんのよ。ですから、こっちが500年じゃおかしいんですよ。少なくとも800年以上なければね。向こうは家譜が残ってるんですよ。こっちは、ちゃんとしたものが残ってないから、そう言えないんですけど、向こうが800年ならこっちも絶対800年以上あるって言ってます。

村の100戸では、自分で形を作って絵付けもして売る人もいれば、形だけ作る人、絵付けだけの人、あるいは、ほかから買って来て経営(販売)する人もいました。

うちは、お祖父ちゃんがデザインして、お祖母ちゃんと母が作って、絵付けも出来ました。私は絵付けもできますよ。

昔はお芝居の人形はちょっと高いし、買う人も少ないから、牛とか猫とか観音様とか、そういう庶民も買えるのを大量に作ってましたね。

『新しい時代』

私は1946年に7歳で恵山鎮に戻って来て、8歳から村の近くにあった学校に行きました。お祖父ちゃんは、非常に開明な人で、女の子でも学校に行かないと駄目だと言ってくれたからね。学校へ行くようになったころから、人形作りを手伝いました。朝、学校に行く前と、学校から帰ったらやりました。まだ力がないから土叩くとかじゃなくて、作った人形を拭いたり、埃を取ったり、絵付けする前の下塗りしたり、型から作ったものをラインに沿ってきれいに削り取る作業とかね。欠けたりへこんだところを補修したりもしましたね。

徒弟制度の見習いの人と一緒だけど、自分の家だからわがままが言えます(笑)。 

1949年の新中国の解放の時は小学4年生。恵山鎮も解放したから、私はちゃんと中学校3年まで行ったんですよ。

55年に合作社が出来て、それまで各家でやっていたものが、村のみんなが集まって一緒に作るようになったんです。

私は16歳で中学を卒業してから合作社に入りました。合作社には、母もお祖母ちゃんもお祖父ちゃんもみんな入ったんですよ。

実はね、私には二人お祖母ちゃんがいるんです。お祖母ちゃんが娘である私の母と一緒に父について戦争に行ったから、お祖父ちゃんは、また若い奥さんもらったんですよ。それでお祖母ちゃんが二人いるから、「大婆ちゃん」「小婆ちゃん」と呼んでたんですけど、その人達もみんな合作社に入りました。

お祖父ちゃんは、研究所でデザインの方を担当して、二人のお祖母ちゃんは、絵付けをしたり、型取りをしていました。芝居の人形の一番大事なことは開顔カイレンと言うんですけど、顔の表情を描くことなんですよ。母がそれを担当してました。

お祖父ちゃんは研究所だから、給料高いんですよ。当時、72元ぐらいでした。

お祖母ちゃんと母達は出来高払いでした。ですから、高い時はみんなで90元ほどもらったこともありますよ。だから、そこそこの生活が出来たんです。

私も自分のお小遣いから5元ぐらい、お祖母ちゃんにあげたりしました。お祖母ちゃんととても仲良かったからね。今でも私、お祖母ちゃんのことすごく思いだしますね。

私は学習班だったから、1年目は月に13.6元。13.6元ていうのは、無錫むしゃく語で言うと「亀」のことなんですよ。同じ発音。だから、あの時の給料が幾らだったかは絶対忘れないのよ。2年目は15元で、3年目は、18元。

でも、今考えたら、あの時の合作社のやり方は良くなかったね。研究は研究ばっかりやる人、形は形だけ、絵付けの人はそればっかりと分業だったんです。本来ならば恵山泥人形は、一人で完成させるものなんです。

人形は職人の感情を表すものです。これを分業して、流れ作業となると、完成しても、心が表せないんです。だから、駄目になったと思うんです。

そうそう、初めの頃は合作社は二つあったんですよ。

第1合作社と第2合作社。それは、解放して55年に合作社が出来ても、入りたい人と入りたくない人がいたんです。入りたい人はすぐに参加したから第1合作社に入って、遅れて入った人達は第2合作社へ。それぞれ100人、200人ぐらい。

そして1958年にふたつは合併して、ひとつの恵山泥人形社、泥人形工場になったんです。その時点で800人ぐらいですよ。

第1社、第2社の段階で、需要が多かったからドンドン人を募集してたわけなの。まわりの村からも人を集めて来てね。今でも、その泥人形の工場はあるんですよ。

「喩湘蓮王南仙泥塑集」より、喩湘蓮ユイシャンリェン師の作品

『本格的に』

1955年に、政府が無錫むしゃく市の文化遺産を残しましょうというので、合作社の中に学習班というのを作ったんですよ。私も学習班に入りました。あの時のスローガンや呼びかけは、「伝統文化を伝承しましょう」でしたね。

学習班というのは、合作社が作った4年間の学校です。そこで勉強した後に合作社に入って働くんです。

一緒に学習班に入った人は、家が人形作ってた人達だから、みんな多少は人形作りの知識あるんです。私も、10年ぐらい家で手伝ってるから、人形はそこそこ作れたんです。

それでも、学習班ではきちんとした訓練をしました。ですから、私達の世代は、基礎がしっかりしてるのよ。4年間の修業ですが、最初の3年間はデッサンとか、文化教養の勉強とか写生とか色彩の勉強をやったんです。それで最後の1年は、実習として実際に制作をしたんです。こうやって、学習班で勉強したから今の私があるんですよ。私が、学習班に入った時に付いた師匠は、手作りの先生でした。

家では、お祖父ちゃんがデザインしたものを型で取ってやってたので、実際に手で自分でやる作業はあんまりしてなかったんです。

それで学習班に入って師匠に付いて純粋の手作りを始めたんです。

お師匠さんのお名前は、蒋子賢先生。伝統を引き継ぐ名人でしたが、当時71歳でした。

1年ちょっと教えてもらったんですが、師匠は72歳で亡くなったんですよ。私はその師匠から学ぶことができたから、ほんとの意味の伝統を継承したと思っています。

合作社にはたくさんの人が集まりましたが、各家ごとの秘伝とか道具とか特別な型とかはないんですよ。ただ、作る人が自分の特徴を持っているだけで、型とかはみんなほとんど一緒です。

みんな自分の家の型とかテーブルとか椅子とか全部持って合作社に入ったんです。それを、いくらいくらっていう計算したんです。株入りと言うんです。株を買うみたいな感じで、道具を持ち込んで資金にしたんです。

私の母は、まだ若かったけど、再婚しなかったんです。ずっと私と一緒に暮らしてたんです。

私は、中学校を卒業した時に地質専門学校を受験して受かったんです。今で言うと専門高校です。でも、母に「あんたが行ったら私は、どうすんだよ」と言われて、しょうがないから、合作社の学習班に入ったんですよ。

母は4人きょうだいで、男が3人いるんですが、その人達は人形の世界に入らなかったの。軍隊に入ったり、全部別の仕事に就いたから、お祖父ちゃんに「おまえ、これやればいい」って勧められて、学習班に入って泥人形の世界に入ったんです。

何で希望が地質学校だったかというと、私ね、木登りや野外で遊ぶのが大好きだったんです。それで野外の仕事をしたかったんですよね。性格的にも男みたいなんです。だから、あなた達が明日会う絵付けの人間国宝の王先生とは正反対ですよ。

私は18歳で学習班を卒業して、合作社の「手捏ね劇文組」に配属されました。そこの作業は、全部手作り。大量生産と違って生産量も低いの。出来高で計算すると、もうお金にならないから、固定給で23元をもらっていたんですよ。工場で大量生産してた人達は「工員」と呼ばれて、私達は「芸人」と呼ばれてましたね。

自分はすごく負けず嫌いだし、落ち着きのない性格なんです。なのに、土を捏ねるようになったら、面白さを覚えて夢中でした。手も器用でしたから、すぐ上達し、組で頭角を現していったんです。試験を受けてもみんなよりよかったから得意になってました。それで研究所に入るメンバーに選ばれましたが、その時まだお祖父ちゃんがそこにいました。

研究所といっても55年の合作社の時に出来た研究所は、「補導フウタオ所」と言って、みんなに補導する役目でした。それが、後に研究所と呼ばれるようになったんですが、2年後に研究所がなぜか一旦なくなって、58年にまた出来て、また2年後になくなって、64年にまた出来たんです。

64年に、学習班卒業して工場に入ったなかから腕の良い人達30人ほど選ばれて研究所に入ったんです。

お祖父さんは、研究所に入るぐらいだから泥人形の世界では権威だったの。研究所にはお祖父ちゃんの他に二人、上海から来た人がいました。その二人は上海の学院派の人でしたね。学院派は彫刻的な要素を取り入れて、恵山泥人形に新しい命を加えようという試みもやってたんですよ。私も指導を受けましたから、私は伝統的な物も、彫刻的な物も作れるんですよ。

お祖父ちゃんは、78年に亡くなるまでずうっと研究所にいました。

その当時、泥人形工場には定年退職制はなかったんです。

『下放』

合作社で、私は共産主義青年団の団長をやっていました。どんな会社でも、工場でも、共産党と並列して共産主義青年団という組織があるんです。1958年、市の会議で夫と知り合ったの。夫は服装工場の共産主義青年団の団長だったんです。結婚したのは64年だから、6年間の恋愛期間があったんです。

64年に結婚して、その年の暮れに長女が生まれたんですよ。

66年に文化大革命(文革)運動が始まりました。運動が始まって大字報ダイジホウという壁新聞が、私を国民党の子供だったとか、そういう出身のことを書きたてました。共産党に潜入した階級だって批判されたんです。資本家階級だって書かれたりしてました。そういうのはどうでもよかったんだけど、気持ち的には、やっぱりなんか晴れないんです。

それでも、研究所で、仕事はずっと続けてたんですよ。

69年の1月に次女を産んだ後に、下放が始まったんです。

工場には、無錫むしゃく市内に研究所のような機関が39ヶ所あるんですよ。そういう機関にいた文化人とか、大学の先生とかは全部下放されたんです。

「タダで飯食ってる人達は許さない」から下放しろって。

夫も下放されて、最初の年は農村で働いてたんです。母親は、工場で働いたんですが、私と離れられないから、その工場辞めて、生まれたばかりの子供を連れて夫と一緒に、そこへ行ったわけなんですよ。江蘇省の北、塩城エンジョウというところでした。

土地は、あの頃、全部国のものです。だから、下放で農村に行かされたら、生産隊に入るんですよ。そこで農民と一緒に働くんです。住むところは別個に建てるんですけど、農民と一緒に働いて一緒に食料をもらうんです。

その当時は、1日労働に出ると1点でした。1点。点数で勘定するんです。男の人は、30日出ても30点です。それで食料と交換出来るんです。だけど、女性は、毎日出られないし、子供も出られないし、お祖母ちゃんも出られないから、私達夫婦二人分の点数じゃあ、とてもお腹いっぱい食べられないんですよ。

1年目は、下放される時に持って行った米とか、蓄えがあったんですけど、2年目からなくなっちゃって、悲惨だったんですよ。あんまり貯金はなかったんです。前途も見えないし、これから先はどうなるかとても心配でした。

お祖父ちゃんは、工場で働いてるから下放されなかったんですよ。私達はなぜか、研究所にいても知識分子扱いなんですよ。共産主義青年団の団長だったのに……スパイ扱いされて、そういう仕打ちでしたよ。

塩城ってとこは、恵山から、今は高速道路が出来て3時間くらいです。当時は1日がかりでした。朝6時に出て夜の7、8時ぐらいに向こうに着きましたね。

塩城は、ものすごく貧しいところなんですよ。土壌に塩分が混じっているものですから、水稲栽培できるように水をたくさん張って、塩分を除く作業をしました。

私の母は、家で子供二人の面倒を見て、私と夫はずっと畑で働いたんです。

この最初の1年目は、ご飯もろくに食べられなかったから、次女が生まれたばっかりなのに、おっぱいが出ないんですよ。それで、母がお米を挽いて、米汁を作って、赤ちゃんに飲ませました。

下放の生産隊では、夏は、5時に生産隊の「起きましょう」という放送が始まるんです。そこで、みんな起き、ご飯も食べずに、そのまま畑で働くんです。2時間ぐらい働いた後に家に帰ってご飯を食べるんです。

そしたら、スピーカーから「行きましょう」っていう放送がかかるので畑に行きます。それでお昼に帰って来て、3時半ぐらいまで休み。暑いからね。それからまた行って、6時まで畑仕事をしました。

この時の食事は主に、トウモロコシのお粥に、干したお芋を細かく刻んで入れたものです。1日3食、こればっかり。おかずは葉っぱを漬けたものです。

次の年でした。南京博物院で彫刻の仕事を手伝ってくれって言われて、行ったんです。革命兵士記念館というところの像を作ったんです。家族は、塩城に残して、自分だけ臨時で4、5ヶ月行きました。

最初の1年半ぐらいは、途中で彫刻の手伝いが少しはあったんです。塩城には海軍の部隊があったんで、呼ばれて、展示会場に軍人の団結というテーマの彫刻を作ったりしました。

そういう仕事には、ちゃんとご飯も出るし、お小遣いももらえて、結構良かったです。そうした仕事がない時は畑で働きました。手は荒れて固くなってしまいましたが、その時には人形を作る手の感覚のことは、なんにも考えなかったですね。

当時、無錫むしゃくの人形の工場では、生産は続いていました。輸出用の品を作っていました。でも、私達のように作れる人が、みんな下放されたから生産が間に合わないんです。

それで、下放先で工場を作りましょうっていう話になって、私達が中心になって、塩城に泥人形の工場を作ったんですよ。それが2年目ですね。南京から帰って来てから文革が終わるまで、ずっとそこで働きました。

私は、研究所にいたから何を作ればいいかわかるし、デザインもできます。それで、私がデザインしたものを工場で作りました。母親もそこの工場で働いて、人形の顔を描いたりしていました。そこで中心的な役割をしたのは、みんな恵山から下放された人達でした。工場では、現地の人達も雇ったんです。

上海の貿易公司から注文がありました。

最初、20人ほどで始まって、だんだん人が増えてきて200人ぐらいまで発展したんです。「響水県工芸製品工場」という名前だった。

その時に作ったのは泥人形じゃないんです。人形は石膏で作ってたんです。工芸製品工場と言っても作っていたのは、輸出するための実用的なものでした。鉛筆削りのまわりが石膏で出来てるのとか、イギリス用に。

たまに泥人形もやりましたが、塩城の泥でした。油泥という種類で、似てるけど、品質が良くないのね。畑から取れるんですが、こっちに少々、あっちに少しと。自分で探すしかないんです。大量生産の品は出来ないので、展示用に少しだけ作っていました。

1978年、下放中にお祖父さんが亡くなりました。母の兄弟が3人無錫むしゃくにいたんですよ。それで一番下の息子と一緒に住んでいたんですが、亡くなって通知が来たので、母だけ火葬に間に合うように行きました。

『復帰』

さまざまありましたが、文革が終わって1979年の6月に合作社に戻って来たんです。

文革は76年で終わったんです。それで、工員達を復帰させるっていう政策があって、戻って来られるようになったんです。主人も服装工場に戻りました。もう改革開放が始まっていましたね。

下放の時に私達の家は没収されてなくなったんです。それで、今のここ無錫むしゃく市内の工房)を、主人の会社が配給してくれたんです。ですから、戻ってきてからは、ここに住むようになったんですよ。

1979年に戻って、私は研究所に戻りました。最初、工場に来いと声を掛けられました。女性がいっぱいいるから、工場長になって欲しいと。でも、私、そういう偉い役には全く興味ないんです。私は研究所に入って、普通の研究をやりたかったんです。それで断りました。

その時の条件では、夫にも研究所で役を付けてくれるという話だったんですけど、でも、自分は、出身が悪いから文革で下放されたでしょ。また何かあった時にそういうふうに扱われるのは避けたいから、普通の研究員がいいんですよ。

普通の研究員だと、余分な収入もないし福利厚生も、偉い人より悪いから、家族からは工場長を断るなって反対されましたね。でも、身分が悪いんだから、研究所へ自分から望んで戻ったんです。

戻ってきた時に、私を下放で追い出した人達ですか? 文革の運動に参加してた人達ね。あの人達も、やっぱりみんな騙されたんですよ。あの革命にみんな騙されたんだから、あの人達を恨んだりもしないですよ。だから、帰ってきてからは、普通に付き合ってたんですよ。お互いに被害者だったんですから。

こういう話はね、普段、あまりしないんですよ。

そういう話をすると気持ちが暗くなっちゃうんですよ。だから、中国の取材の人達には、絶対、話さないんです。あんた達が来たから話してるんです。

『開放後』

11年ぶりで無錫むしゃくに帰って来ました。私は帰ったら何をするか決めてあったんです。

まず、南京博物院に行って、明の時代、清の時代の職人達が作った人形をノートに描き写してきたかったんです。模写してくることです。自分は、若い時に学習班でデッサンを勉強したから、まず全部模写する。それをひとつの仕事としてやっておきたかったんです。

模写をしておけば、復元したり、人形の修復したり、そういう仕事が出来ますからね。当時、その模写したものは全部、黄先生(『漢聲』の編集長)のとこにあるんです。

11年ぶりに恵山の土に触った感触ですか? やっぱり、暫く作ってなかったから、手がね、やっぱり慣れないの。見知らぬ感覚っていうのかな。でも、だんだん作っているうちに、またその覚えが蘇ってきました。

私がいない11年間の間に、「わあ、うまくなった」っていう人はいませんでしたね。なぜならば、彫刻に行ったりしてたからね。中国では、伝統的な人形より彫刻が立派で素晴らしいという扱いを受けます。そして小物なんかつまらないという認識があるんですよ。そういう価値観なんですね。それで人形作りより、彫刻へみんな行ったんです。

私は、この本当のものをずっと守ってきたんです。ずっと捨てずにやってきたんですよ。他の人は、恵山泥人形を心から愛してるわけじゃないから、彫刻に走ったりしてるうちに、基礎を失ってしまうんです。

今でも何人か手で捏ねて人形を作る方はいますが、こんなふうに作れる人は、そうはいないんですよ。この技法を守り続けて来たのは、家にずっと伝わってきたものですからね、これを守っていかないといけないという責任はあるんですよ。

あと、古い作品をいっぱい見てきましたから。模写したりして良いものを見てきましたから。そういうものをどうしても超えたいんです。自分が作ったものと比較しながら、私の作品はどこが足りないとか常に研究してたんです。

80年代から絵付けは王先生に』

明日あなたがお会いする王南仙先生は、伝統の良さを知ってる方です。

私達が研究所で作ってた時は、分業ではなく、最後まで一人で人形を完成させてました。土で人形を作るのから、色付けもずっと一人で。絵付けも私がしていました。ですが、80年代からは王先生と一緒にやるようになったんですよ。

王先生は、無錫むしゃく地区で一番の絵付けの名人です。彼女は、勿論、工場にも行ったし、研究所にも行ってました。工場にいた時は、工場全体の絵付けのデザイン、どういう絵付けするかっていう担当をずっと一人でやってたんです。研究所でもそうでした。

それで、80年代に入ってから、専門に私の作った人形に絵を描くようになったんですよ。それまでは他の職人の作った人形に絵を付けてたんです。私は、自分で描いたあと、顔とか肝心な部分だけ、彼女に描いてもらってたんです。

こうしたやりかたですから、出来高ではなくて給料でした。給料制で、月に45.8元。月にふたつだけ制作すればいいんですよ。2個。それが精一杯の数ですね。自分でデザインを考えて、作り上げるんです。

昔からね、土を捏ねて形を作るのをペイ(坏)と言うんですよ。焼き物もそう言いますね。人形作りも同じです。それで、人形作りでは「ペイ3分、色彩を7分」という言い方があるんです。「ペイサンプン。ペイチーフン」。これってほんとに不公平な話なんですよ。

形を作る人がデザインからトータル的なイメージを描いてペイの作業までやって3分、最後に絵を付けただけで7分という評価は全く不公平だと思います。実際に、形を作る人達はそういう不満を持ってるんですよ。

現実的には、ペイ7分に3分の絵ってとこが妥当なところですよ。私達ペイの仕事は多くの精力を費やしてるわけだから。絵付けの人は、ただ描いてるだけです。

だけど、パートナーの王先生は、どうしても半々だと。ペイより低いのは嫌だとおっしゃるんです。それでそういうやり方で、二人の間ではずっとやってきました。そうでなきゃ、喧嘩になるわけだから。ですから、今は、私は若い子達に「勉強するならデザインから形を作り、絵付けまで全部一人で完成するように」と指導してます。

なぜならば、絵付けの人達は色から入ります。みんなは「この人形きれいだね」って言いますが、きれいなのは色彩であって、形ではないと言うんですよ。酷い話ですよ。

そんなこんなで結構ゴチャゴチャしてんですよ、業界の中では。

恵山の泥人形は、ちょっと立体的ではないでしょ。私は少し平面ぽいと思うんですよ。それは色の付け方の問題なんです。そういう描き方をしてきたんですね。それで、その問題が持ち上がったことがあったんです。

文革中に現代京劇ってあったんです。現代京劇の人物は、みんな地味な色なんですよ。グレーとか紺とか。南京博物院に頼まれて、現代京劇の人形をワンセット作ったんですよ。私がペイを作って王さんが色彩を担当しました。

彼女はそれまでのように鮮やかな色を描いたわけですよ。そしたら、南京博物院から現代京劇はこんな色彩ではないと批判されたんです。なぜそうなったかというと、王さんの場合は、地味な色で描くと作品が見られなくなっちゃうの。だから、デッサンで立体性を出すようにして描けばいいんですが、どうしても平面ぽく描くんです。

私が彼女にそこを説明しても、彼女は昔の手法でずうっとやり続けてきましたから、理解出来ないの。ちょっと他人の意見を聞いて手法を手に入れれば、地味な色でも描けるのに、どうしてもそういうのは出来ないんですよ。

これは余計な話ですが、博物館とか個人のコレクター達が喩大師の人形を持ってるよって、みんな自慢したいんです。でも、喩大師のもの持ってるよっていう言い方は、ペイを重視してる人達なんですよね。そういう人達は王大師ものっていうような言い方しないんです。ほんとにこの業界のわかる人がそう言うんですよ。

「喩湘蓮王南仙泥塑集」より、喩湘蓮ユイシャンリェン師の作品

『私の芸術観』

私にも、何度か南京で彫刻をやったり、彫刻の世界に行くチャンスがあったのに、そうしなかったのは、伝統を守るという責任がひとつ。それと、彫刻に出て行けば、みんなの競争相手になるじゃない。そういう競争の中に入りたくなかったの。

自分はうまいから、私を恨む人が出てくると思うんです。その中には、入りたくなかったの。そっちに入らずにこっちの道で行こうと決めたんです。だから、展示会にも、私、絶対、彫刻は出さない。泥人形しか出さないの。

私は思うんです。恵山泥人形は、舞台から来るものなんだけども、舞台とも違うものなんです。芝居がテーマだけど、人形だから出せるものがあるんです。それは素晴らしいことだと思います。私はそこが好きなんです。

私は、私の理解で私の人物を捏ねて形を作ってるんです。他の人の人形と違いがあるとしたらそこじゃないですかね。そう自分が解釈してるんですよ。そこが彫刻との違いじゃないですかね。彫刻で自分の気持ちを表すより、芝居の人物の姿で、気持ちを表すつもりで私は作ってるんです。

心を、姿に表すことは難しいです。ですから努力が要ります。私はテーマになるお芝居をほとんど観てます。私はまず脚本を読みます。それと、実際に演じた人達の手記を読んで研究するんですよ。

例えば、孫悟空。同じ孫悟空なんだけど、人間としての力を持ってる部分もあれば、神様としてのそういう部分もあれば、猿としての部分もある。それを、演じた人達の体験記を読んで探すんです。私の部屋の中にたくさんそういう本があるんです。

そうやって一生懸命研究したり、勉強して自分が描き出した孫悟空を像にする時には、作るための手と技が要ります。

自分の頭の中で描き、まずは元になる形を作るんです。縮尺の模型ですね。模型を作って、また見て、整えて、納得した上で、拡大した物を作ります。

私の師匠達は、芝居の登場人物は両手なのに、必ず1本しか出さないの。でも、私は、お芝居の中では、2本の手を出してるのに、1本ではおかしいと思う。だから、芝居に忠実に再現するのが自分の表現だと思っています。 頭で考えた物を手で形にする。その技は長い時間を掛けて身につけました。

15歳からこの道に入ったんですが、最初の頃は、捏ねるばっかりでした。捏ねて、捏ねて作って。5、6年ぐらい掛かっても自由に作れなかったですよ。作ったものが醜いとか、形にならないとか。だから、ほんとに自由に自分の好きな形を作れるようになったのは人生の後半期です。86年以降。下放から戻って来てからですよ。今の人はよく「伝統を継承するのに3年の修業は必要」とか言いますが、とんでもない。そんな短い修行では、なんにもできません。

私の手は、私が作ったものです。お祖父ちゃん、お母さんと継いで来た家系の中にありますから、遺伝は、全くないとはいえないと思うんですけど、でも、私のこの手は、自分の師匠に付いて覚えたものだと思います。

親は、型の仕事だったし、お祖父ちゃんは彫刻とか、型を取るためのデザインをしました。ですから、自由に土を捏ね、形を作り出すというのは、自分が師匠から受け継いだものだと思います。それと大事なのは、長い間作り続けて来た情熱です。私は、この仕事を愛してるんです。別に食べるにも困ってるわけじゃないし、いつ辞めてもいいんですけど、ただ、この仕事は、終わりがないんですよ。

いつまでも自分を高めていきたいし、もっと高い目標を目指したいんです。

社会的任務としていろんなところから頼まれてるわけだからしょうがないけど、注文がこなかったら、私は、菩薩像を作りたい。私は、菩薩像がお芝居の人形よりうまいと言われた時が嬉しいの。 菩薩の思想が好きです。私、仏教の本も読むし、台湾の佛光山に1ヶ月以上行ってたんですよ。そこのお坊さんで有名な星雲大師の像を作りました。

『毎日』

毎日、ここ(工房)に朝の6時半に来るんだよ。 

6時に家出て、6時半に着くんです。そしたら仕事を始めるの。お昼は、ここで弁当を食べて、昼寝して5時半まで働くんですよ。家に帰ったら、ご飯を作ってくれる人いるから食べて、食べたら、昔はよく勉強したり資料調べたりしてたんだけど、もう年だから、好きな恰好して、横になりながらテレビのスポーツ番組を観るの。

スポーツウーマンだったからね。スポーツの番組を観て9時半から10時半の間には必ず寝るの。土曜日、日曜日、全く関係なく、休むのが旧正月の大晦日の夜と1日。それだけ。ずっと毎日働いてます。働かないと気分悪いからね。みんな麻雀やってるのを見てると考えられない。お茶だけは飲むね。時間あったら、心を清めるために花を見たり、草とか見るのが好きです。今でもそういうのをスケッチとか写生するの。それでも、年を取ったから、今はずいぶん怠け者になったよ。

体の方は、糖尿病以外は、悪いとこないよ。

宜興の徐先生達ともすごく仲良いんですよ。徐先生と一緒に伝統を守って頑張ろうと言ってるんです。少し違うのは、私は一人でやってるけど、彼は弟子達の集団がいるから、すごい。大邸宅に住んでますでしょ。紫砂は、世界中に愛好家がいるからね。特に香港、台湾にどんなに値段が高くても買う人がいるからね。

人形作りは、紫砂みたいにお金持ちには、なかなかなれない。10分の1にも及ばないよ。一番お金にならない工芸美術大師は人形作りじゃない? もっと恵まれない工芸美術大師もいます。切り絵は儲からないでしょう。それと、女性が香を入れてぶら下げたポシェット作り。あの精密な作品作りの人もいますが、あれも売れない。習慣も変わったし、それに対する審美の意識も変わったから。

我々は、まだ中から少し上ぐらい。

私は、孫が二人いるの。上の孫は、大学院に行くので勉強してて、下の孫が私に付いて人形作りの勉強してます。弟子です。腕もそこそこですよ。その子は、大学に行かないで専門学校を卒業してから始めました。

大学卒業したら、きっと私の言ってることを否定するでしょ。私と大学の先生と言ってること違うじゃないかと言うでしょ。娘も二人います。今一緒に住んでいるんですけど、その家は、上の娘が買ってくれた家です。その子は公務員です。

私、日本に2回行ったことあります。東京と大阪と神戸と奈良へ行きました。

81年、日本で江西省工芸美術展をやったんですよ。私は泥人形の代表として行ったんですが、絵を付けるパートナーは行かなかった。予算もないし、私は自分で捏ねるほかに、描けるから2役できるでしょ。その時に行ったもう一人は、刺繍の先生でしたね。

海外に行かないかって、よく声掛けられて行くんですけど、私だけが行くとみんなうらやましがるでしょ。だから、もう私は、行くの止めたの。

国の工芸美術大師に選ばれたのはいつだったかね。国の第3期目の1993年ですね。紫砂の周桂珍さんは第5期。第3期は私が選ばれて、その何年後かの第4期に王さんが選ばれたんですよ。

徐秀棠シーシュウタン先生は私と同じ年。二人で一緒に北京に行ったんですよ。この時、私は53歳。その2年後に定年退職したんです。国の工芸美術大師になる前は省の工芸師とか高級工芸師に選ばれたりしました。

工芸美術大師は、国の決まりで、年間8000元の生活補助金が出るんですよ。それは、本人のサインがないともらえないから、ちゃんともらってるんですけど、その他に、この伝統工芸に対して補助するお金もあるんですよ。それは届かないねえ。途中で、どっかへ行っちゃうんだね。

それは、例えば、工芸美術大師工作室っていうアトリエみたいなところを作ったり、学習班を作って子供達に勉強させるとか、多分、そういうところにいってるんでしょう。

今、近くに、国級の大師は3人いるんですよ。泥人形は、私と王さん。それともう一人。3人が代わりばんこで、国が決めた工作室に行かないといけないの。展示場みたいなもんなんですよ。そこでみんなに仕事を見せるために代わりばんこで行くんです。月、5日行くんです。その時に、学習班の子供達に教えてます。その時は、日当でもらうんです。1日200元、5日で1000元です。

国はたくさんのお金を省に渡してると思うんですよ。省が、国のお金を勝手に使ってるんじゃないですかね。区のやり方も全然違うし、区と市のやり方にも距離があったり。みんなそれを討論してんの。区の偉い人とか市の偉い人、みんなレベル低すぎて、中央は、こういうふうにしてくれって言ってんのに全然執行しないとか、違うことをやるとか。

収入は、大師の8000元と、年に12回学習班に教えに行くから、1万2000元。両方で2万元。日本円にしたら約30万円。

私が望んでも、良い物を自分の側に置くことは、もう出来ないんですよ。みんな頼まれて作ってるわけだから、どんどん取られてしまうんですよ。

少しは自分のところにもあるんですけどね。それと、民間芸術というのは、非常に偶然性があるからね。今日はうまく作っても、明日はうまく出来ないとか、そういうのも結構あるからね。一番良い物は、黄先生のところにあるんですよ。

自分が作れるうちに、娘達には恵山泥人形のワンセットを作って残してあげたいと思ってます。今、いろんな博物館から注文されて作ってるんです。孫も一緒にやってくれてます。なんとか、伝統を残していきたいですねえ。

ずいぶん、いろんなことを話しちゃったねえ。お役に立てましたか。それはよかった。

◎『身分』『下放』について

1950年に政務院が発表した13階級の身分のことは前に話した。このほかにも幾つもの分類がさまざまな状況の中で使われた。そのひとつが「紅五類」。「紅」は誉ある、良いという意味の字である。このなかには、革命幹部、革命軍人、革命烈士、工人、農民が入る。自分がその身分であれば勿論だが、親達がその階級の出身であることは職業に就く時も、文革のような争乱の時でも、共産党に入党する時でも有利であった。新中国建国に貢献した人々の一族という意味である。

これに対して「黒五類」がある。これに属するのは地主、富農、反革命分子、破壊分子、右派である。新中国建国の敵であった人達である。ユイ師はこの身分に分類された。自分達は「身分が悪いから」と言ったのは、彼女の父親が国民党の軍医だったことを言っているのである。国民党は、反革命分子そのものだった。

ユイ師は若い頃「共産主義青年団の団長」を務めていたし、夫もそうだった。率先して新中国の国作りに貢献していたはずだったが、文革の嵐はわざと敵を作って、それと闘うという名目で新たな運動を起こしたのである。そこで「黒五類」のような敵身分が取り上げられ、批難の対象とされたのである。一説には黒五類に分けられた人は家族まで含めると2億人とも言われている。

ユイ師は次のように言っていた。「66年文革運動が始まりましたね。運動が始まって大字報ダイジホウという壁新聞が、私を国民党の子供だったとか、そういう出身のことを書きたてました。共産党に潜入した階級だって批判されたんです。資本家階級だって書かれたりしてました」と。

大字報は文革運動の時に使われた扇動の文章であり、批判文であった。工場や学校、町の壁などに貼り出された。自分達の意見や反論を述べるのにも使われたが、人やグループの追い落としにも使われた。人々はその前に集まり、読み、反論し、意見を述べ、議論をした。それがやがて暴力を伴い、自己批判を要求するつるし上げや、時には殺戮にも及ぶ激しいものになった。その大字報に親のことやスパイであるという疑いまで書かれたというのである。書いたのは一緒に働いてきた仲間だったり、後輩だったりしたのだ。文革の非人間的な一面である。ユイ師は文革が終わって、工場長を任すと言われた時にも頑なに断っている。もう目立ちたくなかったのだ。何かがあれば身分が取りざたされる。身分、出生、親の仕事は変えようがない運命なのだ。

『下放』は都市の知識労働者や大学生などの肉体労働をしていない〝ブルジョア〟達を農村に行かせて、農民に教われ、そこで学べと農村に転出させた運動のことである。 農作業などしたことのない人々だったので、農村での苦労は大変なものだった。農村側も、余裕があって受け入れたわけではなかったし、どう扱えばいいかもわからず、悲惨な犠牲者もかなりの数に上った。

ユイ師の場合は子供を生んですぐに下放された。理由は、先に述べた身分もあるし、中学を出ているとか、合作社で優遇されているとかいうのもあっただろう。ユイ師はそのことは語りたくないと言った。

下放は、紅衛兵として都市に集まってきた若者達をもてあましたために、地方に帰す方策でもあった。私の取材者の中には、逃げ帰ってきたが戸籍が農村に置かれたままであったから、福祉も食料配給も受けられず苦労したという人や、なんとか都市に戻るために得意の笛を学び、音楽学校へ進学する道を探ったという人もいた。

私は下放というのは「下放される」ものだとばかり思っていたが、通訳はときどき「下放する」「下放した」と能動的に訳すこともあった。そのことを聞いてみたら、毛沢東の勧めた「農民に学べ」のスローガンにみずから志願して行く知識人や大学生達もいたのだという。このあと、王南仙ワンナンシェン師の話を紹介するが、彼女の夫も下放している。しかし、ユイ師の家族とはだいぶ違った下放である。

5の巻 王南仙ワンナンシェン(恵山泥人形彩色師)