『中国の職人』塩野米松

2の巻 徐漢棠シュハンタン(紫砂壺・盆栽鉢)

録音日 2011年9月25
録音場所 中国 宜興ぎこう 自宅にて

先に紹介した徐秀棠シュシュウタン師の5歳年上の兄である。彼も中国工芸美術大師に指定されている。名人顧景舟コキンシュウ(1915ー1996、原名景洲)に弟子入りした。顧景舟コキンシュウは現在に至るも茶壺の世界では筆頭の人気作家である。古い時代の徒弟からも新中国でも、文化大革命時代の批判など変革の中でも、名人気質を保ち続けた人。側で弟子として、その姿を見続けたのが漢棠師である。

元々名人としての誉れの高い方だったが、国の工芸美術大師になると、特に茶壺や盆栽鉢などの嗜好性の高い物には、非常に高価な値が付き、愛好者の中で取引される。

蜀山南街に残るかつての質素な建物とは大違いの鉄筋2階建ての大きな屋敷に住んでいる。案内された1階の応接室は珍しい鉱石類と茶壺を飾った棚があり、豪華なソファーセットが備えてある。心臓の具合がよくないので漢棠師はインタビューを短めに終えてくれとおっしゃった。体調のこともあるだろうが、なかなか気むずかしい口の重い老人である。それでも、話が弾むと2階に作った彼の作品を中心とした展示室に案内してくれ、彼の時代ごとの作品の話をしてくれた。防火、盗難除けのセキュリティの完備した展示室である。

オークションや美術骨董屋に自分の作品が出ると、買い取って散逸しないようにしているという。見事なコレクションで、彼の自分の作品に対する愛着ぶりがうかがえる。茶壺と盆栽鉢に一生を捧げてきた人なのだ。

徐漢棠シュハンタン師の話を聞く。

『名人、顧景舟コキンシュウの弟子に』

私は1932年5月11日に生まれました。旧暦の。

7人兄弟の3番目です。

秀棠シュウタンからも聞いていると思いますが、父の急須を作って売る商売は大変うまくいってました。福康フーカンというブランドでした。父親の兄弟も皆一緒に暮らしてましたから、家は大家族でしてね、賑やかで、生活も良かったんですよ。

当時、作っていた急須は、今みたいに小さくて可愛らしい物ではなく、大衆用の大きな物で、生産も大量でした。家には工員も20人以上いて、ご飯を食べるとき8人座りのテーブルは3、4個くらいありました。

私が5歳の時、1937年には抗日戦争が始まりました。戦争が始まって、ご飯がちゃんと食べられなくなりました。福康の商売もストップしました。戦争中、人々に安定した生活がなくなったため、紫砂の商売も悪くなったんです。

それに、魔法瓶が出始めて、急須でお茶を入れて飲む習慣が少し減りました。戦争が終わるまでずっと悪かったですよ。それで、うちと伯父の家族は別々に暮らすようになりました。生活は益々厳しくなっていました。

当時、丁蜀鎮ティンシューチンではもう商売が出来ないので、みんな上海へ持っていって売ったんです。上海でも公には売れなく、闇商売というか、そういうことをやってしのぎました。

その頃は、生活は貧しいけど、なんとか、まだ食べるものがありました。紫砂が再生して本当の転換期が来たのが1995年ですね。紫砂の市場がまた良くなったのが。

1938年、戦争中だけど私は6歳から学校に行きました。

私は弟の秀棠シュウタンとは5歳違います。実は、真ん中に2人いましたが、2人とも早く死んでしまったのです。病気になっても、治すお金がなかったんです。

私もあまり体が丈夫ではなかったんです。今も心臓に持病を持っていて、今飲んでいる薬は日本の「救心」です。友達が買って来てくれるんです。香港にはありますが、中国国内には売ってないです。それから健康補助のサプリメントもたくさん飲んでます。

子供の頃は、毎日、学校から帰ってきたら、家の手伝いをしました。伯父と別々に暮らすようになってから、我が家は盆栽鉢を中心に作るようなりました。そもそも、私の親父とおふくろは急須を作る技術はあまりうまくなかったんです、伯父のほうがうまかったから、別れた後は、うちは紫砂の盆栽鉢を作っていたのです。

1952年、私は本格的に急須作りの弟子になろうと思いました。その時に、親父は「もし習うなら一番の先生に習ったほうがいい」と言ってくれました。

私が弟子入りした顧景舟コキンシュウは当時すでに紫砂の名人と言われていました。

彼は親父より17歳年下で、私より17歳年上です。親戚ではなかったのですが、彼はうちの父と母を「伯父、伯母」と呼んで、親密に行き来していたので、私とも兄弟のような感じでしたね。彼はとても謙虚で、私の親父とおふくろのことをとても尊敬していました。

最初に、彼は私に「何でも良いから、何かを一つ作ってみせてくれ」と要求しました。私は物を作るのが好きでしたので、すぐ作って見せたら、「良い」と言って弟子として入れてくれました。何を作ったかは覚えてませんね。

当時は、「拝師儀式(弟子入り式)」のようなものもなかったので、その日から毎日私は彼の家に行って習うようになりました。1952年だと思います。

師匠について習ったのが丸3年間、1955年までです。

3年間と言っても、毎日行くのではないです。月に何回か行くだけでした。

その当時、自分の家でも作っていました。親父、おふくろ、それから窯の職人もいました。私は家の仕事も手伝わないといけないので、轆轤ろくろを回したり、物を焼いたりしていました、彫刻もやってました。

師匠の家は私の家から2キロ離れていて、歩いていけば30分くらいかかります。

1952年当時は、急須の市場は大変悪かったので、急須職人のほとんどは別の商売に転向したり、土堀を作りにいったりしていました。

あの頃、わざわざ急須の技法を習ったのは、私一人だったのではないかと思いますね。

親父は先見の明がありました。

今は急須の市場が悪くても、いずれは良くなると思っていたようです。だから、私に習わせたのです。もちろん、私自身も急須作りにとても興味を持っていました。

私は師匠について1、2種類の急須の作り方を学んだのですが、あとは、皆、合作社の紫砂工場に入ってから本格的に習ったものです。

『急須作り』

我々の業界では、最初は道具作りから始まるんです。

一つの急須を作るのには、全部で100種類以上の道具が必要です。

急須の修業は、最初は「泥条を打つ」(土板作り)という基本から覚えます。土を捏ねて紐状の物を作る作業です。

私は自分の家でもこの仕事をやっていましたし、小さい頃から父がやっているのをずっと見て手伝っていたんです。ですから、基礎はありました。家の仕事が忙しい時に、毎日、800個の「泥条」を作っていたのです。毎日ですよ。

師匠のうちに行かない日もずっと基礎の練習を家でしていました。基礎が重要だとわかっていたのです。

師匠について、最初に覚えた急須は「紫元」というものでした。それが4.5元で売れた時、おふくろはすごく喜んでくれました。

当時大きい急須でも3元くらいでしか売れないのに、私が作ったのは4.5元で売れたんですから。私が作ったのは200CCくらいの小さい急須です。

『合作社での修業』

55年、公私合併して合作社になったとき、私も師匠も一緒に合作社に入りました。

紫砂工場に入ってからも、私は顧師匠の弟子でしたので、厳しく仕込まれて、一心不乱に急須を作るようになったのです。

師匠は私のことを勤勉だと褒めてくれまして、「頑張って作らないと家族を養えないから精進するように」と言っておりました。

その頃、私は本当に進歩が早かったと思います。習得した形が3、4種類から、すぐ8~10種類まで進歩し、1時間に1個くらい作るようになりました。

休まずに作っていたのです。一番多い時には、朝から夜の11時までずっと作って、計算したら16個を作ったんです。

若い時は常に革新(新製品開発)を考えていました。工芸美術学院の先生たちが来た時に教えてもらった技法で盆栽鉢を作ってみたりもしました。

でも、師匠はそれに対して考え方が違っていました。

彼は親父に「基礎もまだきちんと出来ていないのに、革新なんてまだ早い」と忠告しました。そのうち、工場の上の人がこの件を知って、私と話し合いをしました。

それで、師匠の元から離れて「革新」の部門に配属されました。

3年間、「革新」の部門に行っていましたが、やはりもう少し師匠の元できちんと基礎と伝統的な手法をやりたいと思ったのです。それで師匠のところに戻りたいと、上の人に言いました。上の人はすぐ快諾してくれました。そして、私は師匠の元に戻りました。

それからずっと30年間師匠と一緒に作って来ました。ですから、私は伝統的な技法でも、新しい物でも、何でも作れます。種類もたくさん作れます。

『厳しかった師』

師匠について話しますが、彼は全てに於いて「基礎が一番重要」だと常に言っておりました。彼の基礎は誰よりも上手で極めておりました。彼は「基礎が出来ないと良い急須を作れない」という持論を持っています。他の弟子が作った急須を見る時に、何回か見ても、全然進歩しなかったら、すごく怒るんです。

彼はとても厳しい人でしたね。

でも、私は師匠を怖いと思ったことはありません。なぜなら、教えてくれたことをすぐ覚えることができたんです。すぐに出来たんです。自分で言いづらいですが、頭は悪くないと思います。それに、自分は急須作りの才能を持っていると思います。急須作りが私に合っているんです。

師匠はいつも、「最後の最後に、教えられないものがどうしてもある」と言うんです。でも、教えてもらわなくても、私はわかるんです。同僚たちはそれを知っていました。どんなに難しいデザインでも、私はちょっと見ただけで、すぐ作れましたから。

私は顧景舟コキンシュウ師匠を時には「伯父」と呼んだり、時には「景舟顧」と呼んでいました。親戚や付き合いのある人はたくさんいるので、苗字を付けないで名前だけだと重複する場合もあるんです。だから、景舟顧と呼びました。

私は師匠と一緒に急須を作るんですが、彼は肝心なところを教えないんです。彼の引き出しの中に図面が入っているので、私は隙を見てそれを見ました。彼は私がそうしてるのを知って、引き出しに鍵をつけました。

それでも、彼がトイレに行く時とか、工場長に呼ばれて、慌てて出た時に鍵をかけるのを忘れるんです。私にとっては絶好のチャンスです。急いで引き出しの中を見たんです。

急須を作るのに肝心なのは、高さ、口の部分の直径と底の比率です。その部分の寸法を測れば、大体の急須の形を把握できるんです。引き出しにあった彼の手帳に描いてある図面を定規やコンパスで測ったりして、私の知らない形の急須の図面を盗み描くんです。

昔は、師匠と言っても100%を弟子に教える人はおりませんでした。「留一手」(一つ残す)というんですが、必ずどこかを教えずに残すんです。中国の諺に「教会徒弟餓死師父」つまり「徒弟に教えたら師匠が餓死してしまう」と言うのがあります。

それでも、師匠に「ちょっと貸してくれませんか」と頼むと、時には複写させてくれましたね。きれいな図面でした。その時、彼は必ず「貸しても良いけど、コピーをしてはいけません、そんなことをしたら、もう二度と貸しませんよ」「自分で描くんだぞ」と言うんです。

図面を下に敷いて、上から写し描くことも許されませんでした。ですから、借りていって、家に帰って一生懸命描いたんです。師は私に絵の勉強、図面の描き方を勉強して欲しかったんですね。

一筆ずつ描くことで印象に残るし、描く練習にもなるのです。若い人にとって、その練習がとても大事です。だから、今、私は自分の弟子にも、孫、孫娘たちにも急須作りを教えるときには、絶対図面を描かなくてはならないと言い聞かせてます。

顧先生が作った物は、それは素晴らしいものですよ。紫砂業界の第一人者として誰もが認めていましたし、今も評価は変わりません。私も小さい時から見て「良いなぁ」と思っていました。素晴らしいです。

『文化大革命』

先ほど公私合併して、私も師匠も一緒に工場に入って、暫くの間、私が「革新」のほうへ行ったと話しましたね。引き続きその話をしましょう。

結局、師匠の元へ戻って、引き続き急須を作るんですが、当時、みんな「党の指示に従え」と言うのです。私にはその意味がわからなかったんです。

同僚たちは積極的に党の指示を仰いで、出世しようとしました。仲間の一人が工場長になって、もう一人は党の書記になりましたよ。そういう出世は、私には特に意味がないと思いました。幹部になった彼らは、工場の中ですぐ地位が上がりました。でも、技術の面では、私の方がずっと上だったんですよ。私は作品で自分を語ればいいと思ったから、それでよかったのです。

文革中、私は特に被害を受けませんでした。造反の運動などには参加せず、私は仕事に没頭していました。200種類の盆栽鉢も作ったんです。

師匠は酷い目にあわされました。

顧先生はその頃全くやる気がなくなっていました。彼は戦時中、日本人のために協力したことがあったんです。保安長になったことがあって、共産党には入らなかったんですね。文革が始まり、このことが、彼の経歴問題として取り上げられ、反革命の人物として分類されました。大きな攻撃ではなかったのですが、師匠は結構弱っていました。でも、我々は師を一生懸命かばったんです。

文革が終わって、先生は元気になり積極性も出てきました。私は引き続き彼に付いて紫砂を作りました。その当時、弟の秀棠シュウタンも同じ工場にいて彫刻をやっていました。

当時は効率よく管理をするために、彫刻と急須を合併して「彫泥工場」を作り、弟が工場長をやり、顧先生は技術顧問を務めていて、技術の面は全部責任を持っていました。

ある時、アメリカから展示用の商品を依頼されましたが、アメリカ人の間ではお茶文化がないので、我々はコーヒー用のセットを作りました。今、そのセットは故宮博物院に展示してあります。斬新な作品だったからです。70年代から、我々は新しい作品を作り始めました。

1975年から1年間、私は工芸美術学院で研修を受けました。その時の方針は「理論」と「実践」を結びつけることでした。

徐家では私と弟の二人が国の工芸美術大師に選ばれていますが、これは自分たちがよく頑張ったからだと思います。努力もしたし、懸命に学びましたから。

紫砂工芸は、80年代に入ってからやる人が増えてきました。

『師への反発』

昔、私は腕が良いからと、工場の上の人に大事にされた時もありましたが、はっきり言って、師匠は私に嫉妬していたと思います。顧先生は私に追い越されることを恐れていました。

1985年、香港の会社が高価なものを注文してきました。師匠のものは1000元の値段が付けられ、私のものは僅か70元か80元くらいでした。私のものは全部選ばれました。師匠は良い物を出さなかったので、先方が選びませんでした。

その後、先生は私が作った急須を反面教材として使い、「こういうのはいけない」「こういうところがだめだ」と、私を随分意地悪く扱いました。

私の長男、次男は下放して、家には三男だけ残っていました。この子は高校を卒業してから、大学には行かず、経験のある、ほかの師匠について2年間学びましたが、師匠が病気になったため、私について学びました。

師匠が私を煙たく思っているとか、そんな考えがあったかはわかりませんが、その頃、ある上海人が、妹がいる宜興ぎこうの紫砂第二工場で観光商品を作るために投資することになりました。妹は私にも「第二工場に来てくれないか」と誘いました。それで、私はそっちの方へ転職しました。

当時、私がいた紫砂第一工場は国営の工場で、第二工場は郷鎮企業でした。ですからこのような転職は、当時結構大胆なことだと思われました。

転職した理由は、自分が居た第一工場では、私の実力が十分活かせなかったからです。顧先生が私のことを抑えようとしていましたから。どういう考えを持って、そうしているのかわかりませんが、昔から、弟子を一人前に育てたら、師匠が餓死してしまうという古い言い伝えがあるでしょう。彼もそういう考えを持っていたと思います。

うちの息子の腕が上がったのを見て、顧先生はあまりいい気持ちではなかったのでしょう。娘もずっと私について修業をしていたのです。下放させられてた長男が戻って、工場に入り、やはり私について修業をしようと思っていましたが、上の人の許可がもらえませんでした。なぜそうするか私にはわからなかったですね。こうしたことが重なってで、そのままいるよりはと思って、第二工場に移ったのです。

第二工場に行ってからは、私の能力はとても活かされました。

10種類近くの商品を開発しました。第一工場にいたらこんなチャンスはもらえなかったと思います。全部上の人の指示に従うしかなかったし、そういう環境では、いい創作が出来ません。

私の望みは、紫砂に関する創作をし、自分の技術を発揮することだけでした。

その頃から、あまり師匠と連絡を取らなくなりました。

1985年に、師匠は香港に行きました。私の親戚が工場で書記をやっており、香港に行く枠があったので顧先生にそのチャンスをあげたのです。彼にとって二度目の香港だったと思います。香港から帰ってきた時、広州か上海か忘れたけど、彼の親戚達がそこまで迎えに行って、私が第二工場に行ったことを伝えたら、顧先生は「とんでもないことだ!」と大変怒ったそうです。先生が居ない間に、弟子の私が離れたのですから。

第二工場の工場長は石軍騰という人でした。彼は私のことをとても大事にしてくれました。便宜を図ってくれて、自由な創作活動ができました。上の人が大事にしてくれれば、自分もやる気が出てくるんです。第二工場に行ってからはたくさんの任務をまかされました。人材もいなかったため、私はたくさんの人を呼びました。第二工場の建設には貢献をしたと思いますね。毎月のように新製品を開発しました。皆、伝統にない創作で、全部自分でデザインをしたものです。

その後、顧先生に会ったときに「お前は今自由になった、お前の選択は正しいかもしれない、俺はもうだめだ」と、言っておりました。

私は1985年、自分が53歳の時に第二工場に移って10年以上働いたかなぁ。その後、私を大事にしてくれた工場長は鎮の別の工場に転勤し、次の工場長が来ました。

新しい工場長はレベルが低かったので、私との関係もうまくいきませんでした。私は65歳で退職しました。普通の人は60歳までですが、私ら役職や大師は65歳まで働くことが出来たのです。

『技の伝承』

自分の人生を振り返ってみて、もし顧景舟コキンシュウ師匠に会えなかったら、今の自分はなかったし、自分の進歩もこんなに速くなかったと思います。

今、言えることは、顧景舟コキンシュウ派の技術は私達が覚えることで受け継がれたと思います。私の子供、孫達も急須を作っています。私は彼らに技術を教える時「経済上の利益より、技術をきちんとやらないといけない」といつも言っています。

技術が良ければ、利益は付いて来ます。

私はもう年です。今は、体を大事にして楽に暮らしています。後継者は、自分の子供と孫なので、私はもちろん何もかも全部教えてしまいます。

師匠は私に対して全てを教えてくれたわけではありませんでしたが、私は全てを教えます。でも、彼らはまだまだ私の要求を満たすには至っていません。もっともっと上達しないといけません。

顧派急須のデザインは皆簡潔です。師匠は形を極めていました。(一つの急須を手に)この形は私が暫くの間、ずっと作っていたものです。でも、今でも師匠を超えられないと思います。師匠は「きちんと作らないとだめだ」といつも言っていました。彼のものは本当にすばらしいです。

オークションでよく師匠の作品を見ますが、ものはすごく高価になっているでしょう。欲しくても買えないですよ。90年代の初めに、師匠の急須は2つで8000元ぐらいでした。当時でも買えませんでした。皆、他の人に買われたのです。彼のものは億単位のものもあるんですよ。

悔しいです。私はいつになっても超えられないですね。周りの人は私の作品も十分素晴らしいと言うけど、自分がよく解っています。師を超えられない。形とサイズが全部一緒でも、やはり魂が違うんです。

私の作品を見ると、時代感があるのを感じるでしょう。

いろんな時代にいろんなものを作りましたからね。例えばこの急須は「四人組」が終焉した時に作ったのです。こうやって自分が作った物を見ていると、その時代のことを思い出します。

紫砂の世界は環境が随分良くなりました。改革開放が始まった頃かなぁ。

第二工場に行ってから作った新しいデザインのものを見てみると、情熱があるのがよくわかります。その頃、私がとてもいい気分で仕事に取り組んでいたからです。私の知恵と技が最大限に発揮出来たんです。

修業時代に1時間に一つを作るというスピード訓練を受けました。その時に作ったのが「柿園壺」というものです。いつか骨董品屋で自分の昔の作品を見つけて、買ったことがあります。ぱっと見て、すぐ自分のものであることがわかりました。まだ、探していますが、なかなか出てこないです。

10歳頃に作ったものです。すぐわかります。全部で3、4個しか作らなかったね。出てきたら買いたいです。

年を取れば、やりたいことがあっても、うまくいかない時があります。

若い人達に追いついて欲しいです。でも、私のレベルに達するのもなかなか難しいと思います。時代が変わったから我々の時代のような修業はもう通用しないし。

でも、若い人達も得意な部分があると思いますよ。彼らは大卒で、文化的レベルが高いです。もっと良くなると思います。

でも、ある部分は私を超えても、ある部分は超えられないと思います。ここ何年間で140種類くらいの自分が作った盆栽鉢を買い集めました。全て私の作品です。

こんなに多くの種類がどうやって出来たのか、今見ても不思議に思います。当時、全部で200種類ぐらい作っていたからね。今、自分の作品を見ても、うまいなぁと思います。この盆栽鉢のレベルに達するのには、今の子供達が修業しても最低でも10年かかるでしょう。

自分の作品を並べてみると、私の紫砂人生には、二つのピークがあったのがわかります。盆栽鉢は200種類、急須も200種類以上作りました。全部で400種類ですよ。今、こんなに作れる人はいないでしょう。

物を作るにはうまくいかない時もあるんです。そうなると、なにもかも煩わしくなるんです。でも我慢するしかないし、こうして、心を鍛え、腕も強くなるんですよ。心と腕を同時に鍛えるんです。

今、現役で急須を作っている人の中で、一番年配の方は85歳です。我々のレベルはみんな高いんです。目も鋭いです。私の子供や弟子が作ったものに、肉眼ではわからないほどのずれや歪みでもあれば、私はすぐわかります。これは経験です。でも、年を取ると、手が利かなくなります。

急須を見る時、一つは「魂」、もう一つは「韻」を見るんです。「韻」は味わいです。「魂」というものは一番難しいですね。今は、国の工芸美術大師でもなかなかこの「魂」を出せません。

デザインに凝って、急須の取っ手の部分をわざと高くする人もいるんです。工芸美術大師の人でもですよ。基準も超えるほど高くするんです。形もまだきちんと出来てないのに、自分が昔の人を超えたと自負している人もいます。私は、師匠の教えに従って、伝統的な形しか作らないです。私は自分の作品をもっと多くの人達に見てもらい、そして、評価して欲しいですね。

今、紫砂の市場は大変乱れています。物はどんどん高くなっていくし、誇張されすぎている部分があると思います。これは背後で紫砂を商売としてやっている人達が操作しているからではないかと思います。昨年、CCTVで「紫砂土の中に偽物がある」という報道がありました。私の作品の偽物が出回っているのも知っています。

今、私は絶対自分の作品を売らないのです。博物館にも渡さないです。宜興ぎこうには「宜興ぎこう紫砂博物館」という所がありますが、そこには私の師匠の作品も、私の作品もありません。私の家にある自分の作品は、友達が来て、お茶を飲みながら、その作品を見て楽しんでくれれば良いと思います。

今、私は体も弱ってきたし、もう作らないですよ。作らないので、売らないのです。今は、心を養うだけです。60年以上作ってきたから。もう休みたいです。

私は顧師匠の直系の弟子です。私の弟子は、息子、孫、6、7人。ほかには、第二工場で私について修業をした人は弟子と言えるかどうか、それも入れるとしたら全部で数十人いると思います。

私は中学校を卒業してすぐ弟子入りした。孫たちはみんな大学を卒業してから、弟子入りしています。我々のような職業に大学は用がないと思います。なぜならば、大学にはこれを教える先生がいません。美大で勉強しても意味がありません。宜興ぎこうにも紫砂の技術学校がありますが、何も教えず、ただ、お金を取って資格証書を配るだけです。数千元のお金を払い南京まで専門知識、理論知識の試験を受けに、たくさんの人が行きましたよ。

一人から2000元を取るとしたら、いくらになると思います? それでも、技術のためには全然プラスにならないし、紫砂業界にもちっとも良くないです。

職人には大学は必要ないと思います。私は中卒ですが、大学に行っていたら、こんなにたくさんの作品は出来なかったと思います。我々職人にとって、紫砂は工芸品なんです。

良い師匠に出会えることもとても大事ですね。良い師匠がいなければ、良い物を作れないです。また、修業には近道がないんです。あるとすれば少しずる賢さがあったほうがいいのかなぁ。まず基礎がきちんとしていないとだめだし、苦労もしないとだめだと思います。

時間をかけて、基礎を磨くんです。名を残した名人は皆、誰もが、勤勉で苦労してやっと腕が上達したのです。もちろん、生まれつきの才能も大切です。才能を持ってないため立派になれないケースもあります。一生努力してもだめですね。私の才能は恐らく父親譲りだと思います。親父はとても手が器用で、また、判断力もすごかったです。誰かがある新しい作品を作ると、親父はそれを見て、すぐどういうふうに作ったのかがわかりました。そういうことを知っていたからでしょう、顧先生は親父のことをずっと伯父と呼んでいました。親父は絵や書が好きで、結構集めていましたし、そうした素養があったのです。その血を引き継いで、自分があったのだと思います。

3の巻 周桂珍ジョウグイジェン(紫砂壺・急須)