ヨコオとイトイの THE エンドレス
 
第14回 どっちでもいいということを、 どっちでもよくなく学んでいく。
糸井 ルールの話は、ロックミュージシャンが
ボロボロの服を着てることと
同じかもしれませんね。
たとえばローリング・ストーンズはステージで
破れたようなTシャツを着てるけど、
考えてみたら彼らは大金持ちです。
直前まで着ていた服をボロに着替えて
「自分たちは自由。大衆とともに」
という表現をしているのですから、
あれはなかなか覚悟が要ると思います。
横尾 目立った存在だけれども、
目立たない大衆の一部になる、なりたい──
いわば、自分を消してしまいたいという
気持ちの現れと裏腹に主張したい。
糸井 ああ、そうかもしれませんね。
横尾 目立つ存在のやつが、
その反対の存在になりたいと言いながら、
「お前たちとちがうメッセージを
 出してるんだ」
なんていうことは、すごい矛盾だよね。
糸井 ロックスターは、そこの矛盾で
やっていくんですよね。
横尾 その矛盾がまた、ああいう音楽を作らせる。
だけれども、
ローリング・ストーンズもビートルズも
デビュー当時からいままで、
どんなに変わったのかというと、
基本的には変わってないんですよ。
あれが、演歌みたいになっちゃったとか、
ジャズみたいになっちゃったとか、
クラシックになるとか、
もう歌わなくなっちゃったとかさ、
そういう変わり方だったら
彼らは芸術家だね。
糸井 それは、ないですよね。
横尾 もしそういうふうに変わっていったとしたら、
“ロッカー”と言っても
いいと思うんだけどさ。
マイケルみたいに黒人が白人に変わるほど。
糸井 ほとんどが商業的成功中心の考え方だから。
横尾 たいていが、そうでしょう。
糸井 人が支持してくれることが
自分の存在意義になっちゃって、
主と客がひっくり返ります。
だから、横尾さんが
はまりそうになるとはまんないように
いつも逃げ回る、その意味がよくわかります。
横尾 だけどね、身の安全を確保するためには
はまってしまったほうが
いいんですよ。
糸井 ええ。その中で上達する、という道も
ありますからね。
横尾 だけど、自分にとってのほんとうの身の安全は、
やっぱりそこから離れていくことでしょう。
自分はいったい、
社会的安全を求めたいのか、
自分の個人的安全を求めたいのか。
そのどちらかと問われれば、もう当然、
世の中のルールに合わないほうへ
行きたいに決まってるわけですよ。
糸井 横尾さんは「行ききれる」というふうに
考えていらっしゃいますか?
横尾 そのためには
ビジョンを持たないとできない。
行けないんじゃないかなと
思いながらだったら、行けないよ。
そうしたらもう、世俗の世界、体制の世界に
これでもかというぐらいに
どっぷり入ったほうがいい。
糸井 うん、うん。
世俗の道も、また同じように
通じますからね。
横尾 いや、ほんとうにそうなのよ。
ヘッセの『シッダールタ』
シッダールタとゴビンダみたいにさ。
読んだことあります?
糸井 いや、ないです。
横尾 シッダールタとゴビンダは
若いお坊さんで、親友なの。
ひとりは仏陀に帰依し、悟りを求める。
もうひとりは、修行に限界を感じて、
仏門から出る。
豪商の番頭かなにかになって、
娼婦の家に転がり込んで子ども作って、
メチャクチャな生活をするわけ。
糸井 正反対の道を取ったんですね。
横尾 やがて、シッダールタとゴビンダは再会するの。
「実はインドで
 ものすごく悟ったやつがいる。
 そいつは筏の船頭さんらしい」
という噂が流れて、
ゴビンダが会いに行ったら、
別れた友だち、シッダールタだった。
糸井 ああ、なるほど。
横尾 徹底的に世俗にどっぷり飛び込んで、
やりたい放題やって、
そこで自分の自我を徹底的に出し切って
私を滅する。
結果、彼は
自分では気がついてないのに
仏陀になってたわけよ。
そういう生き方もあるんです。
そして、どちらかというと、
そっちのほうが早い。
だけどさ、飛び込む世俗の世界が
ものすごい世界だったらいいけども、
そこが中途半端じゃねぇ。
糸井 はい。何十年、いろんなことを
見たことは見ましたが‥‥
そうでもなさそうですよね。
横尾 たとえばもっと地獄地獄していれば、
おもしろいかもわかんない。
「そこじゃないものがなにか
 ほかにあるんじゃないかな」
と、とらえることだって、できるわけです。
でもぼくは、宗教的な世界を自分で設定して
そこに行こうとはまったく思ってない。
糸井 親鸞の非僧非俗のように、
坊さんでもなければ
俗人でもないという場所があったとして、
「では、それはなんなんだ?」と
まだ人は聞きたがります。
だけど、そこで話を終わりにして、
どっちでもないんだよと言ったほうが
ほんとうはいいんでしょうね。
横尾 どっちだっていいじゃない。
我々の中には悟性があるけれど、
悟ってもよし、
悟らなくてもよし、
その段階に到達してない人間が
求めても時期尚早。
糸井 親鸞は、結局
「どっちでもいい」
「南無阿弥陀仏と言うだけでいい」
というところへ行きましたよね。
だけど、そこからまた
差をつけたい人が出てきた。
「南無阿弥陀仏は心から言うことが大事だ」
「死ぬまで言うことが大事だ」
横尾 「どっちでもいい」は
親鸞だけにしか言えないことばでさ。
親鸞に帰依した人たちは言えないよ。
やっぱりどこかストイックになっていく。
そして親鸞から離れる。
糸井 そうですね。
横尾 みんな、
どっちでもいいということを、
どっちでもよくなく、
勉強して学んでいくわけだからさ。



(続きます!!!)
2009-12-08-TUE
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