POMPEII
千体のお気楽な骸骨たち。
田中靖夫さんの手が産み出した天然。

第11回 田中弘子さんとニューヨーク



このコーナーにはじめてきたかた、こんにちは。
こちらは、アート系のひとにとっては、
実はけっこう豪華なページを展開しております。
田中靖夫さんというイラストレーターのかたが
骸骨を描いて描いて描き尽くしているのですが、
その骸骨的世界をのぞき見しようという企画です。

今でもすでにイラストレーターになっているかたや、
美術系の学校に行ったり、個展を開こうと
考えているかたたちからメールをいただいてます。
どうもありがとう。
今回から数回は、もういっそのこと、
美術の方面に興味を持っているひとや、
アートのことを知りたいというひと向けになります。

もちろん、アートへの関心やパッションはあるけど
よくは知らないぼく木村が紹介をしてゆくのだから、
普通のひとが普通に読んでみても
わからないものにはならないと思います。

なんで今回からの数回が、
アート志望のひとにとって最適なのか?
実は、ニューヨークの美術学校で
ながいあいだ教師をしてたひとが登場するのです。

あれ、みなさん、
「骸骨的世界はどこに行ったのか」と思います?
いえいえ、これが実は、関係あるのですよ。
そのかたは、田中靖夫さんとご結婚されている、
田中弘子さんとゆーのですよん。
雑誌「アエラ」でアートのページを書いています。
つまり、プロフェッショナルなひとです。
現在もニューヨークと東京を行ったり来たりの
弘子さんに、美術学校に入学したての
学生のような気持ちで、まずは

「ニューヨークに長くいるのは、どうしてですか?」

とたずねてみました。すると・・・。

「あんまり意味づけをしたことないけど、
 私は、創刊からずっと『イラストレーション』という
 美術雑誌の編集長をしてきたわけです。
 それで、雑誌の仕事は20年間もやってたんだけど、
 もう最後のほうは、仕事をしていても、
 ぜんぜん感動がなくなっちゃって、
 ぬけがらのようになってしまっていました。
 だから「やばいなあ」と思っていましたね。
 休もうと考えていたんですよ。
 1年くらいはアメリカで過ごそうかなあ、と。
 取材で行っていたことがありましたからね。
 向こうで1年くらい英語の勉強でもしたかった」

弘子さんは、日本での美術雑誌の編集長をおえて、
ニューヨークに住むようになったのですねー。
そのあと、何がどうなったのだろう?

「でも、ニューヨークにいても、
 英語はうまくならないし・・・
 記憶力のいいひとは別なんだろうけど、
 わたしは記憶力っていうのはぜんぜんよくなくて、
 1年いても英語はよくわからないし、
 最初はニューヨークタイムズの
 こんなにちっちゃい(てのひらくらいのゼスチャー)
 コラムを読むのにもすごい時間かかっていました。
 それはやっぱり悔しかったし、
 だんだんずるずるとニューヨークにいつづけて。

 ジャーナリストビザで行きましたけど、
 あれはすごくいいビザで、出入り自由でした。
 そのうちに何か、借りている部屋の
 リースの期限が切れそうになって、
 それでどうしようかなあと思っていたけど、
 頭金くらいはそのときに手持ちであったし、
 日本に貯金していても、当時バブルで、
 ものすごいどんどんインフレが進んでいたから
 ばかばかしくなっちゃって、
 それじゃあ、ニューヨークで
 家でも買っちゃおうかなあ、と思いました。

 ニューヨークってすごいたいへんなのよ。
 あそこでアパートをかりてると、
 アッという間にリースの期限がきて値上がりになったり、
 まあ、そのあとバブルがはじけるんですけど。
 日本がバブルだったから買えたというのもありますね。

 そのうち、ニューヨークで
 美術大学の仕事をはじめました。
 『ジャパニーズアートスチューデンツプログラム』
 というのを大学の中につくる仕事です。
 そこのディレクターになったんですけど、
 それをはじめたら、日本に帰れなくなってしまって。
 結局、8年間、それをやっていましたから」

ここから、弘子さんの教師生活になるんですね。
日本人の美術学生のためのプログラムをつくったあと、
どういうことを教えていたんだろうか?

(明日につづく)

2000-03-19-SUN

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