技術とは、なぜ、磨かれなければならないか。HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN
画家・山口晃さんに訊く技術論Part2
山口晃の見ている風景。「見」続ける絵描きの創作論。 山口晃の見ている風景。「見」続ける絵描きの創作論。

画家・山口晃さんに訊く「創作論」です。
2013年の春先に
「技術とは、なぜ、磨かれなければならないか」
と題して連載し、
好評を得たコンテンツの続編でありつつ、
その枠に収まることなく縱橫に広がっていく
第一級の「つくるとは、何か」論。
絵や美術を志す人はもちろん、
真剣にものをつくっている人、
真剣に人生に向き合っている人には、
きっと、何かが、突き刺さると思います。
対象をじっと見て、感じ、手を動かし、また見、
そうしてうまれた自分の作品に、
ひっきりなしに裏切られながらも、つくる。
絵を描くということが、
こんなにもスリルに満ちた営みだったとは。
担当は「ほぼ日」奥野です。お楽しみください。

子どもは巨匠で、巨匠は子ども。
──
ひとつ、子どもが描く絵には魅力があると、
よく言われると思うのですが。
山口
ええ。
──
その言葉の意味合いというのは、
どういうことなのかと、常々思っています。

少なくとも「技術はない」わけですが、
子どもの絵をナメた発言でもないですよね。
山口
実際、子どもの絵のよさってありますものね。

つまり、およそ「技術」と呼ばれるものは、
ある目的へと向かって、
何らかの素材を加工する技だと思いますが、
加工せず、ありのままに提示される素材感、
自然状態により近い‥‥生命感?
いや、そんなようなものに、
ハッとさせられることは、よくありますし。
──
ええ。
山口
ただ、加工されていない良さはあるけども、
子どもの絵というのは、
見ると、だいたい似たような感じですよね。

つまり、よさはあるけど、
個性が勝ちすぎておらず、
何というか、ヒトの遺伝子に近いところで
出来ている感じがする。
──
ああ、なるほど。
山口
さらに、子どもさんは、
新しいことに対して極めて保守的なんです。
──
ええ、たしかに。
山口
自分の世界が壊されるということに対して、
すさまじく抵抗します。
そのあたりのことはあるものの、
たしかに言えるのは、嘘がないことでしょう。

で、人間として原初的な状態が、
技術やテクニックで覆い隠されずに露わで、
その「邪気のなさ」に清々しさを感じる反面、
「思い」というものも、同様に存在しません。
──
自然状態のよさがあり、「邪気」がなくって、
「思い」も存在しない。
山口
「思い」がないから、気負わない。
「気負わず」に画面や絵の具に従うから、
自然と絵が整う

巨匠と呼ばれる画家の絵も、
子どもと同じく、
自然で、邪気や思いがないように思えます。
──
巨匠は子どもで、子どもは巨匠‥‥。
山口
雪舟の絵には、邪気や思いなど一切ないです。
あるのは、ただ「境地」だけ。
──
境地、ですか。
山口
はい。
──
その正体というのは‥‥。
山口
こう、指紋みたいに
本人にその気はなくても刻印されてしまうもの、
未生な部分を現して、
その人としての完全性に至ったような状態、
であると、
わたしは、理解しているのですけれど‥‥。
──
ははあ。
山口
それで言えば、子どもにも、
ある種の「完全性」があると思うんです。

サッカーのチームなんかの強さをあらわす、
レーダーチャートってありますよね。
──
ええ、はい、わかります。

攻撃力・守備力・スピード・気合‥‥とか、
いろんな項目を、
5段階評価かなんかして、つなげてるやつ。
山口
あれって、できあがったチャートの形が
「円」に近ければ近いほど、
バランスが取れているんだってことですけど、
わたしのように「技術」パラメータは、
まあまあ3目盛りくらいとしても、
「時間厳守」パラメータが1目盛りとかだと、
チャートは、デコボコの、いびつです。
──
先ほどから何度も、催促のお電話が(笑)。
山口
でも、その子は、それで、その子の真円を
保っていると思うんです。
──
ああ‥‥いびつの状態が、その子の真円。

ある基準で評価されたらデコボコですけど、
本人にしてみれば、それが自分ですものね。
山口
でも、その場合、社会やら大人やら何やらから、
「ふむふむ、キミは、
 時間厳守の目盛りがぜんぜん足りないね」
と言われて矯正した場合、
そこだけ変にとんがっちゃうと思うんです。

だって、その子は、すでに真円だったんだから。
──
ああー‥‥、なるほど。
山口
つまり、別の「いびつ」になっちゃいます。

社会やら大人やら何やらから見て、
いびつに見えたチャートを真円に直したら、
その子にとってみれば、
そっちこそ、
「不自然ないびつ」になってしまうんです。
──
自然ないびつ‥‥だったものが。
山口
これぞ「社会性を身につける」ってことで、
みーんな、それぞれに、
不自然ないびつになって大きくなっていく。

赤瀬川原平さんは、
ご自身のことを「楕円」と呼んだそうですが。
──
赤瀬川さんには、
四角形の歴史に関するご著書もありますが、
そうですか、楕円という自己認識。
山口
ともあれ、社会性を身につけていく過程で、
自分をいびつにしてしまったその人が、
たとえば、やがて絵を志し、
自己の不自然なゆがみに気付いて、
本来の真円性を快復していく、
その過程のどこかに、
絵は、諸芸術は、あるのではないかと、
そんなふうに‥‥ただの慰みごとですが。
──
いえ、わかります。絵というものは、
本来の自分というものと、
すごく関係しているってことですね。
山口
子どもの絵を見て、素晴らしいなと思うのは、
ひとつには、
自らの生理に忠実であるからです。

ここちよいところを、ここちよく描いている。
そういった原初的な感覚を、
どうにかして取り戻したいなと思っています。
──
先ほど「巨匠には、境地あるのみ」という
お話をされていましたが、
もういちど聞いてしまいますが、
そもそも「境地」とは何だと思われますか。
山口
そうですね‥‥わたし自身がほど遠いために
うまく答えるのは難しいのですが、
子どもと同様、巨匠と呼ばれる人たちは、
リミッターの外れた
生(せい)の常態として絵に向かっています。

そのあたりに「境地」は、あるのかも。
──
その「邪気のありなし」ということは、
年齢というか、経験というか、
そういったものに関係するのでしょうか。
山口
そういう部分も、あるかもしれませんね。

身体にしても心にしても、
一様に育つものじゃありませんし、
自らの生理に逆らってまで
社会に順応しなければならないときが
あるかもしれませんし、
そういう「不自然ないびつ」に
ならざるを得ないときは、あるでしょう。
──
ええ、社会で生きていこうとすれば。
山口
ようするに、
ゆがみが出るのは仕方のないことで、
そういうものを含んだ
ひとまわり大きな輪郭を引きなおすことで、
自分の真円性を
快復していくんだと思います。

有名なピカソを見てみても、
若かりしころの「青の時代」の作品なんかは、
ありまくりでしょう、邪気。
──
ははあ、なるほど。
山口
もちろん、自分自身のことでも、
20代に描いた絵なんか、見ていられません。
もう、うるさくて、うるさくて。
──
うるさい?
山口
邪気というものを言い換えると、
「いいか、おれの声を聞いてくれ」とか、
「おれは、こう思ってる」とか、
「世間とは、こうあるべきなんだ」とか、
そういう、
メッセージや思い‥‥になると思います。
──
山口さんが絵に込めていないものですね。
山口
そんなものが載った絵など見てられないです。

まあ、たまーにちらりと見て、
「ああ、青春」などど感傷に浸るくらいなら、
何かの足しになるのかもしれませんが。
──
それくらいのものであると。
山口
絵描きであれば、どこかの段階で、かならず、
思いやメッセージのようなものが
「絵の主眼ではない」
ということに気づいていると思います。
東京圖 広尾─六本木

2002

紙にペン、水彩

73.5×65.5cm

撮影:木奥恵三

所蔵:森美術館

©️YAMAGUCHI Akira, Courtesy of Mizuma Art Gallery
(つづきます)
2018-03-13-TUE