技術とは、なぜ、磨かれなければならないか。HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN
画家・山口晃さんに訊く技術論Part2
山口晃の見ている風景。「見」続ける絵描きの創作論。 山口晃の見ている風景。「見」続ける絵描きの創作論。

画家・山口晃さんに訊く「創作論」です。
2013年の春先に
「技術とは、なぜ、磨かれなければならないか」
と題して連載し、
好評を得たコンテンツの続編でありつつ、
その枠に収まることなく縱橫に広がっていく
第一級の「つくるとは、何か」論。
絵や美術を志す人はもちろん、
真剣にものをつくっている人、
真剣に人生に向き合っている人には、
きっと、何かが、突き刺さると思います。
対象をじっと見て、感じ、手を動かし、また見、
そうしてうまれた自分の作品に、
ひっきりなしに裏切られながらも、つくる。
絵を描くということが、
こんなにもスリルに満ちた営みだったとは。
担当は「ほぼ日」奥野です。お楽しみください。

見る、とは何か。
──
さきほど「失敗」という言葉が出ましたが、
「手駒」以外の未知なる何かは、
絵の「失敗」からも生まれるのでしょうか。
山口
そういうことも、あるでしょうね。

あたまのなかのイメージを取り出す作業って、
何と言いましょう、
自分の内と外とを「同時に探している」感じ。
自分の奥底深くへ潜っていきながらも、
新しい場所を目指して、
尾根をずーっと歩き続けていると申しますか。
──
主観と客観との‥‥複眼視?
そんな言葉があるかどうかわかりませんが。
山口
とにかく、どうも、絵というものには、
知らないどこかへ連れていかれる感覚がある。
──
それは何に‥‥絵そのものに?
山口
絵が船頭になっていることは、たしかですね。

かっこいいことを言うなら「未生の自分」、
つまり「そもそもの自分」が、
社会ですとか、わかりませんけど、
そんなようなものによって抑圧されたとき、
原初の自分を快復していくための
作業のひとつとして、
絵があるという感じが、わたしにはしていて。
──
なるほど。
山口
ただ、それは原初に戻るのではなく、
未生のものになってゆく、
退化でありながら、進化であるみたいな‥‥。
──
そんな感覚なんですか。
山口
ですから、たしかに「どこか」なんですけど、
そのどこかへたどり着いてみたら、
そこは、むしろ「自分」だったというような。

わかりにくいですよねえ、すみません。
──
いえいえ、で、そのような作業を経ることで、
原イメージに、
ゴチャゴチャいろいろくっついてきて、
そこに新たな何かが混じっていることがある。
山口
絵が自分を裏切ることによって、
逆に自分を、新たな場所へと導いてくれます。

ですから、ようするに、
そうしたんじゃなく、そうしたいのでもなく、
そうなっちゃった‥‥、
流れに逆らわず寄り添っていくというのが、
絵描きが絵をものしていくときの、
ひとつの「技術」かもしれないとは思います。
──
流れに、寄り添う。
山口
心持ちとしては「初志貫徹」の逆なんですね。

だから、絵は、わたしみたいな、
いいかげんで場当たり的な流され野郎に‥‥
ま、生き物の是というのは、
「場当たり的最善」のような気もしますけれど。
──
絵も、生物の進化も、
あらかじめ設計できるようなもんではないと。
山口
生き物は、環境への適応に手駒をぶち当てて、
それでも足りない部分を、
死にもの狂いでやり過ごしてきて、
おどろくような生き様を見せることがあって。
──
ええ。擬態とか、すごいですものね。
山口
絵にも、手駒で手に負えない部分が必ずあり、
生き物みたいに
それで命まで取られるわけじゃないですが、
まあ、まあ、盛大に失敗して、
「うわあ、失敗したなあ」という部分こそが、
じつは、「ん、あれれ?」と、
「未知の領域でありかつ本来の自分」
みたいな場所へつうじていたりもするんです。
──
なるほど‥‥。
山口
これは、関係あるかわからないのですが‥‥
わたしには、
「デッサンが、パッと描けるようになった日」
というのがあるんです。
──
それは、具体的な「日」を覚えている?
山口
そう、だんだんうまくなるんじゃないんです、
デッサンというものは。急に描けるんです。
──
へええ、おもしろい。
山口
少なくとも、わたしの場合は、そうでした。

ある日、その日のモチーフを手渡されたとき、
「あ、描ける」とわかったんです。
──
何だったんですか、そのモチーフとは?
山口
フランスパンでした。
──
フランスパン。
山口
そうです、フランスパンです。
手渡された瞬間に「今日は描ける」と思った。

で、描いたら、描けたんです。
──
それまでは描けなかったんですか。
山口
描けなかったです。

何をどう描けなかったかと申しますと、
フランスパンならフランスパンが、
目の前に存在している「強度」みたいなもの、
そこが、どうしても、描けなかった。
──
山口さんがよくおっしゃるところの、
「解像度が足りない」状態ってことですか。
山口
そう、それまでは。でも、その日は描けた。

それは、独りよがりな思い込みではなくて、
傍らで見ていた先生も、
「お前、やっと描けるようになったな」と。
「これは、他人から見てもわかるような
 変化が起こったんだな」と思ったんです。
──
描けた理由は‥‥。
山口
気になりますよね。
あれは‥‥いったい何だったと思いますか。
──
わかりません(笑)。
山口
わたしにも、わからないんです。
──
でも、お聞きしてると、
絵描きさんの「技術」の話ではありつつも、
同時に「心」の話である気がします。
山口
ああ、そうかもしれません。
──
心構え‥‥心の技術というか。
山口
はい。
──
あの、画家のかたに限らず、
「あたまの中のイメージを形にする職業」
って、たくさんあると思うんです。
山口
ええ。
──
ものをつくる人は、ほとんどそうですし、
それで成功したり失敗したりしています。

自分の仕事を省みても、
「見る」の部分が少なからずありますが、
お話をうかがっていて思うのは、
「山口さんほど見ていない」ということ。
山口
ああ。
──
山口さんって、目の前のご自分の作品や、
対象となる物体を、
ものすごく「見て」らっしゃいますよね。
山口
わたしにとって「見る」とは、
瞬間的な判断でなく、
時間をかけて対象を追いかけていく体験、
そのようなものとして、
そこへ身を浸していくような行為であり、
そうしなければ、
「見る」ことはできない気がします。
──
自分は、自分がつくるものを、
そんなふうには見ていなかったんです。

その点、山口さんはものすごく見てる。
つまり、その、ようするに、
聞きたいのは、「見る」とは何ですか。
山口
絵描きにとっての
「見る」ということのひとつは、
「意味をはずす」ことです。
──
意味を、はずす?
山口
はい。
最後の晩餐(部分)
最後の晩餐

2008

カンヴァスに油彩、水彩、墨

80 x 233 cm

撮影:宮島径

©️YAMAGUCHI Akira, Courtesy of Mizuma Art Gallery
(つづきます)
2018-03-08-THU