日本文学研究者で、日本に帰化した、
92歳のドナルド・キーンさん。
日本人を知る旅の2回目です。



キーンさんの見た玉砕[2]

キーンさんが初めて訪れた戦場。
それはアリューシャン列島のアッツ島だった。
アメリカの侵攻を阻止するという目的で
日本が占領した島だ。
地図で見ると、カムチャッカ半島のさらに東、
こんなところまで、手が回るわけがない
(なにしろすでに中国を侵略し、
 南方の島々も占領しているのだ)
と思ってしまうほど北にある小さな島だ。

1943年5月、アメリカ軍が
この島を奪還する軍事作戦を始める。
2週間余りの激しい戦闘のあと、
キーンさんは島に上陸、
そこで信じがたい光景を目の当たりにする。

「日本人が手榴弾を自分の胸にあてて
 爆発して死んでいた。
 私が死体を初めて見たのはアッツ島でした」

「死体を見てどうでしたか?」と私は尋ねた。

「まあ不思議な気持ちでした。
 見たことのないものでしたから、
 死んだ人がどんなものか」

「これまで日本に対して
 いろいろな思いを抱いていらっしゃった。
 そんななかで、日本人が手榴弾で
 自決しているのを見てどう思いましたか?」

「大変驚きました。私の常識では、
 手りゅう弾がひとつしかない時は、敵に投げる。
 しかし日本の兵隊は、恥のことを考えて、
 あるいは愛国主義か何かがあって、
 最後の手りゅう弾を自分の胸で爆発させました」

中国に侵略し、アメリカを攻撃する日本に抱いた
「恐い国」という思い。
さらに敵を攻撃するための武器で
自らの命を絶つという日本人の行動は
キーンさんの理解を超えたものだった。
どうして日本人は捕虜になろうとせずに
死を選ぼうとするのか。
日露戦争のころが書かれた本を読んで
その疑問はますます深まったという。

「明治時代、日露戦争のとき、
 日本人は捕虜になったんです。
 そして戦争が終わったら日本に帰ったんです」

キーンさんは不思議そうに言った。

「堂々と帰ったんですね?」

「そうです」

日本人は日露戦争のあと変わってしまったのか。
捕虜の歴史を研究している専門家に聞くと、
こんな説明をしてくれた。

日露戦争に行ったのは職業軍人だったが
太平洋戦争へと続く日中戦争のころには
ほとんど訓練しない若者まで
赤紙一枚で戦場に送りこまれた。
そのためすぐに白旗をあげて
みずから捕虜になる兵士が続出する。
放っておくと、戦力が失われるうえ、
軍事機密が漏れてしまう。
そのため捕虜になることを禁じたのだという。

1941年、東条英機が
陸軍大臣だったときに定めた『戦陣訓』。
軍人が守るべきルールブックのようなものだが
このなかに有名な一文がある。

「生きて虜囚の辱めを受けず」

つまり、捕虜になってはならないと
明文化もされていたのだ。



キーンさんが上陸したアッツ島は
そんな日本軍にとって
その後の戦いのありようを決定づける
大きな転機になる島となる。
キーンさんが上陸したころ
何が日本軍のなかで起きていたのだろうか。

アッツ島の戦いにのぞんだアメリカ兵が
1万人を超えたのに対し、日本兵は2600人、
最初から兵力の差は歴然としていた。
このためアッツ島にいる日本軍から
「急速なる補給を必要とするもの、
 歩兵一大隊半、およそ1500人」
との応援要請が東京に届いたにもかかわらず
大本営は、結局これを無視し、
最後まで戦うよう命じる。
捕虜になることは許されていないため
事実上、全滅せよという命令だった。

キーンさんが見た
日本兵が手りゅう弾を自分の胸で爆発させる光景は
まさにこの命令を受けたものだった。
それにもかかわらず、
大本営は国民には嘘の情報を流す。

「(アッツ島の)山崎部隊長はただの一度でも、
 一兵の増援も要求したことがない。
 また一発の弾薬の補給をも願ってまいりません。
 その烈々の意気、必死の覚悟には
 誰しも感佩(かんぱい=心から感謝すること)
 していたのであります」

そしてアッツ島の日本軍はほぼ全滅、
大本営はこう発表した。
「アッツ島守備隊のわが部隊は、
 ついにことごとく玉砕しました」

大本営が初めて国民に向けて
“玉砕”という言葉を使った瞬間だった。
辞書で玉砕をひいてみると、
「玉が美しく砕けるように
 名誉や忠義を重んじて潔く死ぬこと」
と書かれている。

つまりこういうことだ。
戦線を広げすぎたため、
劣勢でも応援の部隊を送り込む余裕がない。
だから現場が全滅しても、見捨てるしかない。
そのことを覆い隠すために
“玉砕”という言葉を使って美化したのだ。
国に見離され、極寒の地で死ねと
命じられた兵士たちが
この言葉を聞いたらどんな思いを抱いただろう。

玉砕の思想は、アッツ島を皮切りに
その後、サイパン、グアムなどにも広がり
戦死者の急増を招くことになる。
キーンさんは自伝のなかでこう振り返っている。

「私はアッツ島で自決した
 多くの日本軍人が抱いていたらしい
 死の誘惑に共感することは到底できなかった。
 そして日本人を理解しようという
 私の試みの最初のつまづきとなったのは、
 おそらくこの気持ちだった」

日本人への割りきれない思いを抱いたまま
キーンさんはその後、ハワイの捕虜収容所で
日本人たちへの尋問を担当する。
ケガをするなどして
やむなく捕虜になった日本人たちだ。
そこでキーンさんは
震えるような瞬間を体験することになる。


(続く)

2015-05-05-TUE
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