今年もどうぞよろしくお願いします。
しばらく間があいてしまいましたが
もしよかったらまたお付き合いください。
オリンピックイヤーの今年、
最初のコラムは2人の水泳選手の物語、
4回連続でお届けします。


最後のオリンピック[1]

去年の終わり、
あてもなく新聞をめくっていると
小さな記事に目が止まった。
見出しには
「北島5位、ハンセン優勝」と書かれている。
私は一瞬、目を疑った。
あのハンセンがまだ現役でいたんだ、
しかも優勝したんだ。
驚きと感慨を抱いて文字を追った。

無理もない。
私の中では、いや私だけではないだろう、
ブレンダン・ハンセンは世界記録を持ちながら
2度のオリンピックで続けて北島に敗れ去り、
すでに過去の人になっているはずだった。
少なくともどこかの大会に出場した、
という報に接したこともなかった。
ところが記事によると
ハンセンは3年の空白の後、復帰し、
冬季全米選手権の平泳ぎに出場、
100メートル、200メートルともに
北島をおさえて優勝を果たしたというのだ。
ふたりの対戦は前回の北京五輪以来、
初めてのことだった。


北島とハンセンのライバル物語の中での
ふたりの役割ははっきりしている。
本番に強い北島と
大舞台で力を発揮できないハンセン、
この構図が残酷なまでに
出来上がっているといってもよかった。

北島が初めて金メダルをとった
2004年のアテネオリンピック。
実はこのとき世界記録を持っていたのは
北島ではなく、ハンセンだった。
ハンセンはアテネ五輪のアメリカ代表選考会で
北島の持っていた100メートルの
世界記録をあっさりと更新、
さらに200メートルでも
世界新記録をたたき出した。
アテネ五輪本番のわずか1ヶ月前のことだった。

ところが本番では北島が圧勝する。
100メートル、200メートルともに
金メダルに輝いた。
ハンセンは100メートルで銀、
200メートルは銅メダルに終わった。
世界記録は依然として
ハンセンのものだったが
勝負では北島が勝ったのだ。

アテネ五輪だけではない。
それから4年後の北京五輪でも
似たような光景が繰り広げられる。
アテネ五輪のあと
モチベーションが定まらず
低迷する北島に対して、
ハンセンは自らの世界記録を
さらに塗り替えていく。

特に2006年のパンパシフィック選手権では
100メートルに続いて
200メートル決勝でも金メダルを獲得、
隣のコースを泳ぐ北島に
2秒以上も差をつける大差の勝利だった。
次のオリンピックは、今度こそ
ハンセンの大会になるに違いない。
誰もがそう思った。

ところが北京五輪が見えてくると
立場はあっさりと逆転する。
本番まであと2ヶ月と迫ったタイミングで
北島が200メートルで
ハンセンの記録を1秒近く上回る世界新を出す。
世界記録を4年ぶりに
ハンセンから奪い取った瞬間だった。
すると、この出来事に動揺したのか、
ハンセンから力強い泳ぎが消える。

それから1ヶ月後に開かれた
アメリカの北京五輪選考会の200メートルで
ハンセンはまさかの4位に終わり
代表の座すら失ってしまう。
200メートルでは
オリンピックに出ることすらできなかったのだ。
しかもなんとか代表の座を勝ち取った
100メートルでも、オリンピック本番で
メダルに手が届くことはなかった。
一方の北島はいうまでもないだろう。
日本人の鮮烈な記憶に植えつけられているように
100、200メートルとも
圧倒的な強さで金メダルを獲得したのだ。


なぜ北島は本番に合わせて
ピークを持ってくることができるのか。
本人に直接、尋ねてみた。
「それはすごくたくさんの人に
 訊かれるんですけど、
 何でなのか、自然にやってるんで。
 あんまりこうしたからこうなったとかは
 ないと思うんでですけどね。
 もしかしたら、
 ハンセンが勝っていたかもしれないし、
 そんなものはもう全くわからないんで、
 彼の心がもっと強ければ、
 彼はもっと高いパフォーマンスを出来たと思うし」

確かにそうなのかもしれない。
ハンセンは母国アメリカでも
本番での“弱さ”が指摘されていた。
だがもし、北島がいなかったとしたら
ハンセンはアテネオリンピックで
あっさり金メダルをとったかもしれない。
そしてその自信が鎧となって彼を覆い、
続く北京五輪でも勝っていたかもしれない。
この問いがひどくばかげているのはわかっている。
でも北島康介という選手と
同じ時代に生まれていなければ
ハンセンとて、心が弱いというレッテルを
貼られることはなかったかもしれないのだ。

そんなハンセンに一体、何が起きたのだろう。
3年間の空白期間をどう過ごし、
なぜもう一度、挑もうと思ったのだろうか。

(続く)

2012-01-16-MON
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