『ぼくは見ておこう』
松原耕二の、
ライフ・ライブラリー。

<ほぼ日読者の皆様へ>
ほぼにちは。
きょうはテロ事件や
報復の軍事行動などを見ながら
思ったことです。
タイトルにもなっている『ゲームのルール』は
この7年ほどずっと僕の心に残っていた言葉です。


ゲームのルール

「ある朝起きたら
 ゲームのルールが変わっていたんですよ」
アップル・コンピューターのジョン・スカリー会長は
静かな顔でそう言い放った。
94年にプロデューサーとして参加した番組で
彼にインタビューした時のことだ。
当時パソコンの世界では
ハードからソフトへと主役が移っていた。
スカリー会長はその移行を語ったのだ。

マイクロソフトのオペレーションソフトがあれば
パソコン機器はどこの会社のものでも大差なくなった。
つまりハードが市場を支配した時代は終わりを告げたのだ。
明らかに『ゲームのルール』が変わった瞬間だった。
ルールが変わるのには、たいていきっかけがある。
マイクロソフトのオペレーションソフトが
業界を支配するようになったケースは、
IBM側から見れば判断ミスがあった。
もともとマイクロソフト社のソフトは
IBM機の専用ソフトとして世に出た。
(マイクロソフトは自前のソフトではなく
 シアトルの他の会社から買ったものを
 マイクロソフト製としてIBMに納入したのだが)
その後マイクロソフトはそのソフトを
他のハードメーカーにも納入することを
IBMに認めさせたのだ。
マイクロソフトはそれから
デファクトスタンダード・業界標準になっていく。

こんなめんどくさい話をなぜしているかというと、
スカリー会長の言葉を聞いてからというもの、
『ゲームのルール』という言葉を強く意識し始めたからだ。
そう思って見回すと
『ゲームのルール』は時に大きく変わる。
いやかなり意図的に変えられていると
言ったほうがいいかもしれない。

スポーツの世界では
ルールが勝負を分けると言っていいほど
大きな要因となる。
モータースポーツの最高峰F1では
レギュレーションという言葉で
ルールがめまぐるしく変わる。
あるチームがあまりに強くなると
エンジンの基準を変えたり
マシンの長さや重さに制限を加えるなど
様々な方法でゲームのルールを変えるのだ。
建前は「レースを面白くするため」なのだが、
変更の時期や内容によっては
様々な反発や憶測を呼ぶことになる。
ホンダエンジンが圧倒的な強さを見せた時には
結果的にホンダの力を弱めるような
ルール変更が行われた。
ヨーロッパのスポーツに日本というアジアの国が参入し、
勝ち続けることが愉快ではなかったんだろうと
当時、解説する人も居た。

かつて日本のお家芸だったバレーボール。
日本の男子バレーが編み出したクイックの数々。
ミュンヘンオリンピックは金メダルに輝いた。
76年にはルールが改正された。
『ブロックの後、3回プレーをしてもいい』
ということになったのだ。
つまりそれまではブロックでワンタッチした後、
2回触ると相手に返
さなければならなかったのが、
3回プレーできるようになった。
それは当時日本のクイック対策だと囁かれた。
クイック攻撃を仕掛けられると
守る側はあわててブロックに跳ぶ。
するとワンタッチする確立が高くなる。
そのあと3回触れることができれば
もういちど立て直して
日本に対して攻撃しやすくなるというのだ。

最近ではスキーのジャンプ競技だ。
長野オリンピックで日本が団体で金メダルをとったあと
ゲームのルールが変わった。
板の長さが、
身長プラス80センチまでというルールが
身長の146%までとなったのだ。
この数字だけ見てもピントこないが、
要するに背の高い選手ほど有利なルールになったのだ。
つまり背の低い日本人より
ヨーロッパの選手により有利とされた。
実際それから日本のジャンプ陣は低迷にあえいだ。

スポーツの分野だけではない。
経済の分野でもゲームのルールは
決定的に大きな意味をもつ。
BIS規制という言葉を
お聞きになったことはあるだろうか。
銀行の自己資本比率を何%にするかという
国際的なルールだ。
1998年にBIS(国際決済銀行)は
この自己資本率を8%にまで引き上げると発表した。
当時、日本の銀行が低金利で預金を集めて
貸し付けを広げていると
欧米の金融機関は苦々しく思っていたと言われている。
実際、預金量などで日本の銀行が
世界でも上位を占めるようになっていた。
そこで日本の銀行の自己資本率が低いことに目をつけ
好き放題できないよう縛りをかけた。
そんなシナリオが囁かれた。

日本がねらい打ちにされていると言うために
幾つかの例を並べてきたわけではない。
おそらくそういう面だけを強調するのは一面的だろう。
言いたかったのは
ゲームのルールを決めるのは誰かということだ。
ルールを支配することができる人は
そのゲームをコントロールしやすくなる。
一方でルールを押しつけられた(と感じた)人々は
新しいルールに反発したり
ある種の恨みを持つ傾向があるということだ。

長い歴史を振り返っても
時代時代の大国がゲームのルールを決めるのが普通だ。
そして今の世界を見渡してみると
冷戦が終了してからアメリカが
唯一の大国として君臨するようになった。
一国がこれほどの力を持ったのは
近代以降初めてのことだ。
つまり今の時代、ゲームのルールを決めるのに
アメリカが最も大きな力を持つだろう。

アメリカは理想を現実にしようという
はっきりした意志をもつ素晴らしい国だと僕は思う。
それは逆の立場をとる国から見ると
相当押しつけがましい嫌な国なのだ。
今回の国際的なテロ事件とアメリカの報復を見ながら
僕はなぜかゲームのルールという言葉を
思い起こしてしまう。
この10年近く、グローバリズムという名のもとに
アメリカは自らが好むゲームのルールを急速に
世界に広げようとした。
今回のテロを起こしたのは
イスラム原理主義者のごく一部の過激派だろう。
だがテロが起きた背景には
アメリカが決める『ゲームのルール』への強い反発が
あるように思えるのだ。
誰がゲームのルールを決めるのか、
あるいは決めないのか。
21世紀を『文明の衝突』の時代にしないためにも
考えなければならない問題なのかもしれない。






『勝者もなく、敗者もなく』
著者:松原耕二
幻冬舎 2000年9月出版
本体価格:1500円


「言い残したことがあるような気がして
 口を開こうとした瞬間、
 エレベーターがゆっくりと閉まった」

「勝ち続けている時は、自分の隣を
 神様が一緒に歩いてくれてる、と感じるんです。
 ・・・たいていそういう頂点で負け始めるんです」


余韻を大切にした、9つの人間ノンフィクションですっ。
(ほぼ日編集部より)

2001-10-16-TUE

TANUKI
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