『ぼくは見ておこう』
松原耕二の、
ライフ・ライブラリー。
<ほぼ日読者の皆様へ>
 長いコラムなのに
 読んでいただきありがとうございます。
 たくさんのメールまでいただきまして、
 うれしくて涙がでそうになりました。
 今回もちょっと長いですが、
 もしお時間があったら
 おつきあいください。
 元気なおじいちゃんの話です。


93歳コンパイの謎

あなたが80歳を過ぎたとしよう。
残りの人生についてどんな風に考えるだろうか。
おそらく、あなたはすでに一線を退いているだろうし、
先に旅立っている同級生もいるだろう。
そろそろ自分も店じまいの時が近づいた。
大抵の人はそんな風に
思うのではないだろうか。

ところが「店じまい」どころか、
80歳を過ぎてから「店開き」をし、
93歳のいま人生最良のときを迎えている男がいる。
キューバのミュージシャン、コンパイ・セグンド。
世界でヒットした映画
『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』
に出演した最長老だ。 

「チェ・ゲバラもカストロも僕より年下だよ。
 だけどカストロは僕より老けて見えるけどね」
コンパイはそう言ってにやりと笑った。
黒のスーツにグレーのパナマ帽という出で立ち。
よくみるとパナマ帽とワイシャツが
同じ色でコーディネートされ、
スーツはネクタイの水玉の黒と呼応している。
濃いグレーのマフラーが襟元をふわりと流れる。
アル・カポネ時代の映画から
抜け出てきたような威圧感があった。
インタビューのためではない。
彼にとっては普段着なのだ。

ソファーに座り向かいあって最も印象づけられたのは、
瞳の輝きだった。
キューバ人としての浅黒い肌には
確かに深いしわが刻まれてはいたが、
瞳が発する強い光はそれとは無縁のものだった。
老いゆく肉体の時間の流れには惑わされない、
精神の窓のようでもあった。
そしてなによりも人の心をつかむのが、その笑顔だった。
人生を楽しみ長生きしただけでは
とうてい得られないものが
奥に横たわっているように思えた。
そう、彼の笑顔は深く、美しかった。



『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』の中で彼は言う。
「人生で大切なものは、女と花とロマンス。
 私は今も現役だ。
 子供は5人いるが、いま6人目をつくっている」
映画を観た人みなが驚いたこの科白は本当なのか。
確かめるとコンパイはあっさり答えた。
「いま私の彼女は40歳。6人目をキューバでつくります」
え、40歳ですか。
私は思わず声を上げた。
本当なら彼女は半世紀も若いということか。
私の反応を楽しむかのように、
彼は煙をくゆらせてウインクした。

ひとときも葉巻を手放さず
彼はインタビューに丁寧に答えてくれた。
数え切れないほどの恋をしてきたこと。
ラム酒が好きで毎日飲んでいること。
音楽が自分の人生でどれほど大事かということ。
最近作った曲を披露しよう。
そう言って彼は突然口ずさんだ。
   人生の花はなんて美しい
   遅かれ早かれ
   君のもとに輝いてとどくよ
   元気をなくさずに
   ほら君にとどいた 
   魂を元気づけるために
哀愁を帯びたメロディーが響く。
インタビューに立ち会ったキューバ人スタッフや
日本のレコード会社の担当者たちも息をのんで聴き入る。

「私の人生にも花が咲きました」
歌い終わるとコンパイは言った。
「誰にでも人生の花が咲くチャンスはあるんです。
 それは仕事かもしれないし恋愛かもしれない。
 遅かれ早かれ誰のもとにも来るんです」
彼は目を輝かせて微笑んだ。
「私はもう老人ですが、ようやく花が届きました」



確かに彼に花が届くまでには多くの時間が必要だった。
生まれたのは1907年。
日本でいえば日露戦争のころだ。
10代から歌をつくり、キューバの伝統音楽を奏で続けた。
ところが1959年のキューバ革命がすべてを変える。
彼の音楽は資本主義の遺物と見なされたのだ。
彼は表舞台から姿を消し、葉巻屋で働きはじめる。
当時51歳。
それからほぼ30年間、
音楽家としては空白ともいえる時間を過ごすことになる。

彼はどんな思いで葉巻を巻きつづけていたのか。
新幹線で大阪に移動していたときのことだ。
富士山が見えるあたりで、
彼に話を聞こうということになった。
慣れた通訳でやらせたいという側近たちの気遣いもあって、
彼らがキューバから連れてきた人にお願いすることにした。

「富士山は、自然から日本人へのプレゼントだ」
初めて見るその雄姿にコンパイは大きな声を上げた。
いくつかの質問をしたあと、
私は空白の30年について訊ねてみることにした。
「キューバ革命のあと一線から退きました。
 音楽活動ができなかったのは革命の影響ですね?」
通訳が一瞬私の顔を見てから訳した。
コンパイは答えた。
「キューバには医者がたくさんいます。
 第三世界の貧乏な国にも
 医者を派遣して手伝っています。
 国民にとっても医療費はタダだし、
とても助かっているよ」
こちらの意図とあまりに違う答えに戸惑いながらも、
時間がなかったため次の質問に移った。
コンパイは日本の田園地帯を眺めながら、
自分がどんなふうに生きてきたかを語った。

後でわかったことがある。
他は正確に伝えていた通訳が、
問題の質問だけ違う訳をしていた。
空白の時間とキューバ革命の関係を訊ねているのに、
なぜか「革命のおかげでよくなったこと」を
聞いていたのだ。
単語の問題というより、全く違う質問になっていた。
『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』が
注意深く「政治」を避けたように、
コンパイも社会主義国に生きる自分の立場を
忘れることはなかった。
カストロ政権への恨み言が
もしあったとしても口にはできない。
側近たちもそうしたやっかいな問題から、
彼を遠ざけようとする習性が
ついているのかもしれなかった。

コンパイは82歳で表舞台に復帰する。
その後はアメリカ、ヨーロッパ、
世界へとその活躍の場を広げていった。
まるで失われた時間を取りもどそうとするかのように。



大阪でのコンサートの日の朝、
コンパイの息子のサルバトーレに話を聞くことになっていた。
彼は同じバンドでバスを担当していた。
自分の部屋は狭いからと、
コンパイのスイートルームを指定してきた。

入るとギターを奏でる音が響いていた。
隣の部屋から
アコースティックの乾いた音色と弦を滑る音がした。
そっと覗く。
窓のそばのソファーにコンパイが座っていた。
「父は今でも毎日、
 必ず2時間ギターの練習をするんです」
サルバトーレが小声で言った。
コンパイはギターの音を
ひとつひとつ確かめるように指を動かしていった。
まばゆいばかりの光が窓からさしこみ、
コンパイの姿はシルエットになっていた。
入り込んではならない神聖な儀式のように思えた。
こうした孤独な時間を彼はどれだけ過ごしてきたんだろう。
自分の内なる声とどれほど対話を繰り返してきたのか。
「音楽が川のように流れている」キューバという国で、
彼は空白の時代も
こうしてひっそりと奏でていたのだろう。
政治体制など関係ない。
彼は自分の音楽をつくり、歌い続けてきたのだ。

コンサートは大成功だった。
彼の最大のヒット作『チャン、チャン』で締めくくられた。
観客はみな立ち上がり、
93歳のはつらつとした笑顔と
いまだ艶のある太い声に大きな拍手を送った。

「僕のおばあさんは115歳まで生きたんだ。
 僕もそこまではがんばるよ」
彼は当然というふうに私に言った。
人生を楽しむこと。
それだけではない。
人生に寄り添う悲しみを打ち負かそうとする情熱。
彼を追っていくうち、
その笑顔が深く、美しいわけを
わずかに垣間見たような気がした。 
長生きの秘訣を最後に訊ねてみた。
彼が返した答えはちょっと意外なものだった。
「好きだからといって、
 何事もやりすぎてはダメです。
 仕事も恋もタバコも、
 好きなものほど、 ほどほどにしなければなりません。」
彼はいたずらっぽい目をして繰り返した。
「ほどほどにね」

2001-03-06-TUE

TANUKI
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