神業的ノミさばきを見に行こう!混んでも行くべき? 運慶展

第三回
大日如来像との3回の出会い

──
山本さんは40年以上も
運慶を研究されているということでしたが、
これまでの運慶との関わりについて、
もう少しうかがってもいいですか。
山本
そうですね‥‥
いちばん最初のところから言うと、
私は子供のころ、漫画家になりたくて、
中学生のころには漫画誌に投稿しようとして、
プロの漫画家に見てもらおうとしたんです。
昭和42(1967)年ごろのことですが、
あこがれの石ノ森章太郎さんに連絡をとって、
32ページの自分の作品をみてもらった。
石ノ森さんが読んでくれたあと、
そこにいた赤塚不二夫さんも、
とても丁寧に読んでくれたんですが、
読んだあと赤塚さんが怒り出しちゃったんです。
「君は中学生だろう。
こんな手のこんだ漫画を描いたら時間がかかる。
中学生はそんなことをしていないで、
もっと本を読んだり映画を見たりしろよ」
そう、真剣に言ってくださった。
──
へぇーーー。
山本
この人はすごいな、と思うと同時に、
自分は漫画家にはなれないなとも感じたんです。
もともとは、大学に入って、
美術史や美学を勉強してから
漫画家になろうという夢があったんですが、
たとえ漫画家になれなくても
途中の目標の大学にだけは入ろうと、
東京芸術大学の芸術学科に進学しました。
ところが、入ってみると、
あたり前ですが芸術大学は実技家の世界です。
絵画科の人は毎日絵を描いて、
彫刻科の人は毎日彫刻をつくって、
音楽学部の人は毎日歌ったり、
演奏したりしている。
教室で講義を受けているだけの自分が
ばかみたいに思えてしまったのです。
──
芸大ならではの悩みですね。
山本
はい。それが大学2年生のときに
古美術研究旅行というのにいって、
出会ったわけです。運慶に。
先にもお話ししましたが、
運慶のデビュー作とも言われている
奈良の円成寺にある
大日如来坐像(※第一回参照)に出会って、
これを勉強しようと決めた。
幸運にも芸術学科には彫刻史の専門で
運慶の大家の先生がいらしたので、
その先生におともして調査をはじめました。
活動の中には仏像を動かして記録するといった、
座学ではないフィールドワークがあって、
そういう経験を重ねるうちに、
実技家への劣等感をある程度払拭できて、
これが自分の仕事だと思えるようになった。
それから40年以上、こうして、
研究を続けているというわけです。
──
そこからずっと運慶を専門にして研究を?
山本
いえ、そう簡単ではありませんでした。
運慶の研究というのはなかなか難しくて、
手がかりがとても少ないんですね。
ですから、すいすい研究できるわけではなくて、
実際、私が書いた運慶についての卒業論文は、
指導教官にいまでも「あれはダメだった」と
言われるほどダメなものでした(笑)。
──
(笑)
山本
その後、なんとか進んだ大学院では
運慶よりもだいぶあと、
鎌倉時代後半の仏像作家のことを勉強して、
なんとか研究者として博物館に職を得ました。
──
その時点では、必ずしも運慶の専門家、
というわけではなかった、ということですね。
山本
はい、そんなときに転機が訪れます。
昭和61(1986)年ですから31年前、
博物館に勤めていた私のところに、
群馬県立女子大の学生さんから相談がありました。
彫刻で卒論を書くにあたって、地元の栃木県の足利に、
一緒に調べてほしい大日如来像がある、と。
足利といえば、室町幕府を開いた
足利氏の本貫の地ですから興味はあります。
じゃあ、ということで軽い気持ちで行ったところ、
足利市にある光得寺の
厨子(ずし=仏像をまつる小型の宮殿)から
大日如来像を出したんです。
私には、姿形をひと目見た段階で、
運慶作ではないかと思いました。
像内に納入品のある可能性もあったので、
後日再調査にうかがい、X線撮影をしたところ、
運慶の納入品の特徴をもったものが確認できた。
水晶珠や木柱です(水晶珠は仏像の魂をあらわすもの)。
それで、関連する史料も調べて、
これは運慶作であるという論文を書きました。
論文を書いた63年、大日如来坐像は
国の重要文化財に指定されました。
この出会いがなければ、
私は「運慶学者」にはなれていなかったと思います。
──
はー、そんな出会いがあったのですね。
山本
そして、それから15年後、
一般の会社員の方から手紙を受け取りました。
大日如来像を買ったので、
私の本(『大日如来像』)を読んで勉強した、と。
その人が買った像は、その人によると、
鎌倉の終わりか南北朝時代のものだと思うが、
像底がふさがっているので、
X線写真を撮る方法はないか、という質問でした。
私は同封の写真を見てびっくりしました。
足利の像にそっくりだったからです。
──
おお!
山本
あわてて訪ねて行くと、
大日如来像は床の間に置いてありました。
見ると、非常に似ている。
驚いている私を見て、持ち主の方は、
なんでこの人はこんなにびっくりしているのかと、
不思議そうにしていましたね(笑)。
じつは、先の光得寺の像で論文を書いたとき、
調べた史料の中に足利の古い記録があって、
そこに、光得寺のものより古い、
1193(建久4)年に作られた大日如来像の
存在が記されていたんです。
これがそれに該当するなら、辻褄が合う。
そう考えて、像を博物館にお預かりし、
X線写真を撮ったら、光得寺像のものによく似た、
推定どおりの納入品が確認されました。
──
じゃあ、運慶の作。
山本
はい。それでまた論文を書きました。
2004年のことです。
同時に博物館で一般公開しました。
私にとっては博物館勤務最後の年でした。
──
つまり、運慶の仏像を一般の人が所蔵して、
床の間に飾っていた、と?
山本
そうなんです(笑)。
博物館でしばらく預かって展示していましたが、
すばらしいものなので、博物館や文化庁が
その大日如来像を買おうとしました。
でも2008年になって、ニューヨークの
クリスティーズでオークションに出されてしまった。
当時、かなり大きな話題になりましたよ。
結局、ある宗教法人が約14億円で競り落として、
海外流出は免れました。
いまは半蔵門ミュージアムに安置されています。
──
へえぇ、そんなことが‥‥。
山本
振り返ってみると、
私と運慶の出会いは3回あるんです。
まず、大学2年生のときに
運慶のデビュー作といわれる
円成寺の像に出会いました。
その後、群馬の女子大生から
相談を持ちかけられた光得寺像との出会い。
そして一般の方から相談された像が3回め。
この3回の大日如来像との出会いを経て、
私は運慶の勉強をいまも続けている、
というわけです。
──
今回の「運慶展」が、いろんな人にとっての
新しい出会いのきっかけになるといいですね。
貴重なお話、とてもおもしろかったです。
本日はどうもありがとうございました。
山本
ありがとうございました。

(山本勉さんへの取材はこれで終わりです。
お読みいただき、ありがとうございました。)

2017-10-25-WED

プロフィール
山本勉(やまもと・つとむ)

美術史家。清泉女子大学文学部文化史学科教授。
日本彫刻史専攻。1953年、神奈川県生まれ。
東京芸術大学大学院博士後期課程中退。
24年にわたる東京国立博物館勤務を経て、
2005年より現職。著書に『運慶大全』
『仏像のひみつ』『運慶にであう』など。
共著に『運慶 リアルを超えた天才仏師』。