吉本隆明 「ほんとうの考え」
007 自分 (糸井重里のまえがき)

ここは、別の話をしていたときの「流れ」の
一部分を抜き出したものです。

吉本さんという人が、
「いつも考えている」ということ、
「ずっと考え続けてきている」ということについて、
ぼくもですが、ほんとに多くの人が
感心しちゃうんですよね。

人間は、ここまで考えるものなのか。
という驚きの感想が、
昨年の夏の講演のあといただいた、
いちばん多くのメールでした。

考えるということについて、話していて、
ちょうどぼくがそのころ思っていた、
「自分」という視点のことを言い出したら、
ころころころっと、話が転がっていったのでした。
糸井重里
糸井 こうして吉本さんとお話ししていると、
新しいことが生まれてくる、
そのことが、ぼくらにとって驚きです。
それは、吉本さんが絶えず
考えていらっしゃるからでしょうか。
吉本 うーん。
なんだかんだいって、
基本的というのか根本的というのか、
そういうことについて
いつでも考えているから、
ということはあるでしょうね。
直接主題ではないことも、
そこからひっぱったりして話しています。
糸井 つながっていくんですね。
吉本 そうです、つながる。
いまはとくに、
そういうやり方しかできないです。
糸井 だけど、きっとお若いときから、
思考の形は同じところがありますよね。
「ひらめく」というよりは、
「つながる」ということ。
吉本 ええ。
自分では「持続性」と言ってます。

時代のいろいろなことは、
状況によって変えなきゃいけない、
あるいは、変わんないとウソだよ、という
部分があります。

それとは別に、もうひとつ、
永遠の課題というものがあります。

自由で平等で
苦しがったり失業したりする人が
いなくなることはいいことで、
これは永遠の課題です。
だけど、そう簡単に、
ひとつの国ががんばって
政府をぶっ倒したとしても、
それがはじまるわけではない。

変わるものと永遠のもの、
このふたつを綿密にとらえないと、
実相というものは
なかなか浮かんでこないです。

いまの問題と持続的な問題がまとまる
頂点というか、集合点があるんです。
そこだけ捕まえていれば、
どういうことに適応させても、
たいていそんなに大きな間違いはしないよ、と
ぼくは思います。
糸井 誰の中にもきっと、薄いけど、
その考え方はあるんだと思います。
その考え方の助けになることのひとつは、
もしかしたら
「自分という視点」ではないでしょうか。
一般論で語っていると、
いまも永遠も、どこかへ行っちゃいますし。
吉本 そのとおりですね。
いろんなことにくわしく、
要点をまとめることができたとしても、
自分が入っていない場合があります。
そういう人の意見を聞いていると
実感がないから、どうしても不満が残ります。
糸井 どんなに勉強してもダメなんですよね。
「自分が入らないこと」は、もしかしたら
現代の病かもしれません。
しかし、最近、お笑いの世界では、
自分が入っている実話や楽屋話を
芸にする人たちが増えてきました。
太宰治や織田作之助が
私小説を書いていた時代のあの確かさを、
芸人さんが、お笑いの中に自分で入れて
「私お笑い」をはじめたんでしょうね。
吉本 ああ、なるほど。
それは、そういうことが欲しいからでしょう。
糸井 自分を入れなくては
お笑いが成立しないということを
敏感にわかったんだと思います。
吉本 自分が外側にいたらダメなんです。
お笑いだけじゃなくて、文学もそうですし、
きっと政治もそうだと思います。
自分が入ってこないし、
そして、入ってきたと思ったら、それは
よくよく聞いていると他人のものだったりする。
(前の)総理大臣だって
そういうところがあったんじゃないかな。

あれだけ度胸がいいやつは
自民党にはほかにいねぇから、というのは
わかるんだけど、
要するに、自分のことを入れてないから
ああいうことが言えるんだな、とぼくは思います。
アメリカは入れてるかもしれないけど、
自分を入れてないから、
すべらかにああいうことが言えるんだぞ、と
思います。

だけど、ひと昔前の、
根拠地型の政治家は、
自分が入ってることしか言わない。
それはやっぱり、自分をいれない人に
いまは押しまくられちゃうんですよ。
糸井 自分の「痛い」だの「痒い」だのが
入った考えが、ほんとうは必要なんだけど、
いまは「痛い」「痒い」を
言っちゃいけない時代なんでしょう。
吉本 そういう時代なんでしょうね。

(次の日曜に、つづきます)



2009-09-09-WED

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