大瀧詠一さんとトリロー先生の話を。
1949年1月21日発行 よみもの「日曜娯楽版」NO.1に掲載
左から三木のり平、河合坊茶、三木鶏郎、小野田勇、千葉信男
タイトル


大瀧 卒業して、即、ここ
(三木鶏郎企画研究所)に就職ですか。
竹松 卒業するちょっと前ぐらいに、
鶏郎先生に、卒論が賞をいただいたので
「おかげさまで、賞をいただきました。
 ありがとうございました」
とお手紙を書いたら、
「サイパンから帰ったら、また会いましょう」
とお葉書をくださって。
社交辞令みたいなものでそれっきりかな、
と思っていたら、本当にお電話をいただいて、
「お会いましょう」ということで、
ところがお約束した前日に、
先生が心筋梗塞で倒れてしまったんです。
糸井 ほぉー‥‥
竹松 大丈夫かしら‥‥と思っていたら、
マネージャーさんが、
「お見舞いがてら、病院に来る?」
と連絡をくださって。そこで、
鶏郎先生から、手伝ってくれませんかと。
今まで書いてきたものをまとめたりとか、
その当時、コンピュータもやろうと
いうところだったので、
「そういうことでやっていきたいんだけど、
 時間があったら手伝わない?」
「じゃ、時間の空いているときに行きます」
「君、就職はどうするの?
 就職しないんだったら、
 時間があるときでいいから、手伝いに来て」
と。最初は、1時間でも2時間でもいいと
言っていたんですけど、
だんだんやることが増えてきてしまって‥‥
大瀧 フフフ。
竹松 私は当時音楽活動をしていたんですが、
それを終わりにして、
なにか違うことをやろうと思っていたので、
「ここでちょっとお手伝いしてみようかな」
という気持ちになったんです。
糸井 鶏郎さんが倒れなければ、
就職じゃなかったんだね。
ただ、ご飯、食べただけかもしれないんだね。
うわぁー‥‥!
大瀧 起きるんだよね、そういうことってね。
糸井 向こうもそういう人が必要かもしれないけど、
言い出すのが難しいですものね。
大瀧 そう、そう。言いそびれる可能性が高いよね。
やっぱり、若い身空である身を、
自分の整理のために当てていいものかと、
絶対、年寄りは悩みますよ。
糸井 うん、そう思うと思うよ。
‥‥でも、倒れれば言えるよね(笑)。
大瀧 そう。倒れたから、ついつい、
言っちゃったんだね。
‥‥これはいいところに来た、
みたいな感じでね(笑)。
竹松 その前にも‥‥卒業する前にも一度‥‥
鶏郎先生がマックでオーケストレーション
しているときに、戦時中に書いた人形劇団
楽曲をオーケストレーションし直して、
打ち込みをやっていたんですね。
その当時、人形劇をやって戦地に行って
亡くなった人たちを追悼するために、
コンピュータで作った音楽を、
みんなで聴きながら思い出そうじゃないか、
という会を企画していて、
「その音を作るのを手伝わないか」
ということで、卒業前に一度、呼ばれていて。
糸井 音楽的な仕事をやってもらえる人だと
いうことは、よくわかっていたわけだね。
大瀧 そう思えば思うほどね、
なかなか言い出しづらい。
‥‥それは、すごい話だね。
糸井 きっと、作っている最中には、
自分のやった様々な仕事を
整理するなんてことは、
思いもよらないタイプの人
だったんでしょうね。
大瀧 まぁ、大抵、あまり、やってすぐに
サッと箱に入れるというタイプの人は
いないね。そういう人は、
あまりいろんな仕事をやらないよ。
糸井 そうか‥‥そうだね。
大瀧 うん。大抵、投げて、後ろの人が整理する、
というようなタイプの人でないと、
数はやれないし、長くやれない。
糸井 膨大ですものね。
竹松 ええ。すごいですねぇー。
糸井 で、その膨大な鶏郎さんの作品が
与えた影響というか‥‥
なぜ、あまり、
名前を聞かなくなったんだろう。
大瀧 だから、今、認知度が無いということは、
もう、地下に染み込んだということなんだよ。
糸井 そうかもしれない!
大瀧さんは、鶏郎さんのことは
意識してずーっと‥‥?
大瀧 いや、なんにも知らないですよ。
糸井 ほんとですか!
大瀧 無縁ということはないでしょうけど。
どっかでは、知ることになっていたと
思うんですけど、
大森さんに声をかけていただいて‥‥
糸井 それはいつのことですか。
大森さんも長い人ですから。
大森 ウフフフ。
大瀧 1973年の1月です。
糸井 ということは、
まだ、バリバリに活動しているときですよね。
大森さんが‥‥
大森 そう、“ON”をスタートしたその年。
72年にスタートしたんだけど、
本格的なのは73年。
糸井 大森さんが“三ツ矢サイダー”の
CMを手がけた
のはいつなんですか?
大森 72年の末からですね。
糸井 あ‥‥その機会!?
大瀧 そうだよ。
73年のジャスト20年前に、
鶏郎さんが、三ツ矢サイダーの
テレビCMを作っていた
の。
20年後に俺が現れたわけ。
糸井 成人したんだね、三ツ矢サイダーが。
大瀧 三ツ矢サイダーを作ると思って、
“はっぴいえんど”を3年も
やってたわけじゃないんだよ。
たまたまなんだから。初CMだもの。
糸井 面白いなぁー!
あれは70年代だったんだ!
大瀧 70年代と言わないでよ。73年だよ。
大森 世の中に発表したのは‥‥
オンエアしたのは、73年。
大瀧 君が佐世保で暴れていた頃の
2年後ぐらいだよ。
糸井 いや。もう、違うんですよ。
68年には学校を辞めてますから。
73年はね‥‥仕事してますね。
で、一視聴者として、
“はっぴいえんど”のレコードを買ったり、
サイダーのコマーシャルを見たりして‥‥
大瀧 もう、なんかやっていたでしょ。
糸井 「なんか‥‥やれないんだろうな」
と思っていた時代ですね。
「ま、いいか」みたいな。
大瀧 そう。‥‥そんなに、キャリア遅いの?
‥‥同い年だからね、こう見えて。
糸井 73年というのは仕事をはじめて
4年後だから‥‥あ、わかった、わかった。
「もう、このまま、のんびりと
 やるんだろうなぁ」みたいに思ってた。
いちお客さん、ですね。
コンサートとか、いっぱい行っていてね。
それこそ、吉祥寺のライブハウス、
100人ぐらい入れてる所で、
山下達郎と吉田美奈子が一緒にやってます、
‥‥みたいなのを、列に並んでね。
「整理券、出してるんだよ」
「えーっ、整理券かぁー」‥‥って。
大瀧 えー? こう見えても
糸井さんとは同い年なんだよ。
5つ、6つ下の‥‥
糸井 バンドやってるコはやる側だけど、
ロックを聴いてる人数というのは、
‥‥あんまりいなかったの。じつはね。
みんなが聴いていたみたいに
思っているけど。
大瀧 ええ。いませんでしたね。
糸井 ライブハウスに行く人数も、
120人で充分満員じゃない。
大瀧 そう。その人たちがあちこち行ってるだけね。
動いてるだけでね。
糸井 そう、そう。その120人の端っこにいた、
コピーライターになりかけの奴、ですよ。
大瀧 えー?! じゃ、
三ツ矢サイダーのときには、
まだCMとか何もやってないの?
糸井 とんでもないですよ。
大瀧 ゲッ!‥‥じゃあ、CM業界じゃ、
俺のほうがキャリア長いんじゃない。
糸井 もちろん、もちろん。
大瀧 そう?! いや、それ、全然知らなかった。
糸井 僕が大森さんと知り合ったのは
80年に近くなっている頃ですよね。
だって、矢野顕子はもう
デビューしてましたからね。
大瀧 「春咲小紅」は81年か。
‥‥糸井さんは「TOKIO」でしょう。
糸井 「TOKIO」が80年ですね。
「TOKIO」をやる前に
大森さんに会っていて、
あっこちゃんと初めて仕事をしたのは
79年とかですよね、きっとね。
大森 北海道のams西武ですね。
大瀧 あれが、最初?
糸井 うん。
大瀧 僕はCMは77年でサイダーを終わってる。
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『僕はアマチュアカメラマン』
【小西六】
作詞・作曲:三木鶏郎
歌:灰田勝彦

再生して音が出るまでにしばらく時間がかかります。
(つづきます!)

2005-12-26-MON
デザイン協力:下山ワタル
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