TORIGOE
3分間で、
最近のニュースを知る。

鳥越俊太郎の「あのくさ こればい!」

第333回

ほぼ日編集部様

12月14日のニュースから

「死亡記事は大切なニュースだ」
と新聞記者時代に教えられたことがある。
今でも新聞の社会面に載る訃報には一応目を通す。
一つには自分の年齢ということもあるんっでしょうがね。
今日はこういう死亡記事の見出しに思わず目が行った。

「福竜丸被ばくスクープ」
「安部光恭さん70歳」


あ、あの人は安部さんと言ったんだ、
今日私は初めてその人の名前を知りました。
「第五福竜丸」
この名前は私達の世代の人間なら大抵知っているでしょう。

でも、今の若い人たちはほとんど知らないと思います。
だから今日は敢えて
この話を取り上げようという気になったんですばい。
1954年、というから昭和でいうと、
昭和29年のことです。私は中学3年生。
今日の記事によれば、1954年の3月、
米国が太平洋ビキニ環礁で行った水爆実験で、
静岡県焼津港のマグロ漁船「第五福竜丸」が被ばく。
焼津港に帰港した後、当時読売新聞の
静岡支局焼津通信部の記者だった安部光恭さんが
その被ばくの事実を知り支局へ一報を入れた。
これは大特ダネだった。
読売新聞の特ダネで第五福竜丸被ばく事件は
日本だけではなく世界中の大きなニュースとなり、
その後広島、長崎の被ばくと並び、
日本の被ばく体験のシンボルとなった。
アメリカが太平洋で
水爆実験などという危険なことをやっているのは
当時誰も知らなかったわけで、
これで冷戦時代の現実が垣間見えた、そんな事件でした。
安部さんはこの特ダネで55年に
第3回菊池寛賞を受賞したとです。
この被ばくを抜いた読売の記者の
特ダネ話は新聞記者の世界ではよく知られたことで、
中にはよしっ、オレも、
と思った記者もいたことでしょう。
それぐらい有名な話なんですが、
今日の今日までその記者の名前は知りませんでした。
今、計算してみると、安部記者は
当時24歳だったんですね。
24歳というのは大学を出て新聞社に入って
1〜2年しか経っていない、まだ新米記者の部類でしょう。

それに普通大卒の記者は支局配属はあっても、
通信部には配属はされませんので、
安部記者はいわゆる本社採用の
エリート記者ではなかったのかもしれません。
この辺はあまり詳しくないので
間違っていたらごめんなさい。
しかし、この焼津港で一生に一度というぐらいの
僥倖に恵まれた安部さんは
その後の人生が大きく変わったんでしょうね。
あ、こういう場合「僥倖」と書くと、
多くの人たちが亡くなったり、傷ついたのに、
なんて不謹慎なという反応が必ずあるので、
ここではあくまで記者として特ダネに遭遇したことが
ラッキーなだけで、
事件自体は大変不幸なことだったと言っておきます。
安部さんの訃報を見ていて気がつきました。
安部さんの経歴は
「元読売新聞記者、元静岡第一テレビ常務」
となっていました。
最後は日テレ系のテレビ局の
常務と言う立場だったんですね。
安部さんは恐らくその後の人生でも
第五福竜丸とともに生きてきたんでしょうね。
そして、亡くなったときもこうして死亡記事が

「第五福竜丸被ばくスクープ」

の見出しとともに載ったんです。
70歳というのはまだ早すぎる死ですね。
先輩記者の人生を思いながら今日は書きました。
今日はブッシュさんの大統領本決まりとか、
読売新聞の渡辺オーナーの放言とかありましたが、
もう今日はこれだけにします。
そういえば、渡辺恒雄さんも読売の記者でしたね。
現在74歳なので、安部さんの4年年上、
先輩になります。
安部さんが超弩級の特ダネをかっ飛ばしたとき、
ナベツネさんはたしか仙台支局にいたはずですが、
何を思ったんでしょうかね。

はい、今晩はこれまで
また明日・・・・・・

2000-12-15-FRI

TORIGOOE
戻る