第3回

地下足袋越しの感触。

──
林業というイメージからすると、
青木さんみたいな若い人がやっているのは
意外な感じもするのですが、
どうして、
今のお仕事をはじめられたんですか?
青木
大学が、東京農業大学の農学部林学科で。
──
林学科、というのがあるんですね。
青木
はい、まあ、でも、本当は、
その学科で学びたかったというより、
東京農業大学に
探検部という部活がありまして‥‥。
──
そっちが「先」だった?
青木
ええ、探検部としてはかなり有名なので、
どうしても入りたいと思って。
──
探検が好きだったんですか。
どういった探検を、なさってたんですか?
青木
あまりご存じないとは思いますが、
『ケイブ・アトラス』
という海外の雑誌があるんですね。

「Cave」は「洞窟」、
「Atlas」は「地理」のことなんですが、
ようするに、
世界各国の「いちばん深い洞窟」を、
特集しているような雑誌で。
──
何とも、マニアックそうな。
青木
その雑誌をパラパラ見てたら、
洞窟というのは世界中にあるんですけど、
モンゴルだけ載ってなかった。
──
載ってない?
青木
そうなんです、モンゴルだけ、載ってない。

そこで、探検部の先輩が
「よし、モンゴルに洞窟探しに行くぞ!」
と言い出して、大学へ入学した年に、
その先輩にくっついて、
モンゴルに洞窟があるかどうか探したり‥‥。
──
あったんですか、洞窟?
青木
ありました。見つけました。

3年生のときの夏にも、
大きな遠征隊を組んで行ったんですが、
モンゴルって
ロシアの南側なんですが、寒いんです。
──
ええ。
青木
冬は氷点下30度、40度まで下がります。

だだっ広い草原に
突如として竪穴がポッカリ空いていて、
ロープで降りていったら、
底に、落ちた馬が、
そのまんま氷漬けになっていたり‥‥。
──
以前、洞窟探検家の吉田勝次さん
取材させていただいたときに感じた匂いを、
今、青木さんにも感じています。
青木
あはは、ほんとですか(笑)。

まあ、そういうことをやってたんですけど、
大学を卒業してもやり足りなくて、
卒業翌年には‥‥メコン川って知ってます?
──
はい、ベトナムのほうの。
青木
そう、メコンの源流はチベットなんです。

1994年に、その源流を発見したのが
農大の探検部なんですが、
「先輩たちが発見したチベットの水源から
 メコン川を下ってこよう!」
となりまして、大学は卒業してましたが、
研究生という身分で残り、
遠征して、チベットの川下りをしました。
──
チベットって、標高、相当高いですよね?

写真家の野町和嘉さん
インタビューさせていただいたとき、
家の中の毛布に
ビッシリ霜が降りている写真を見ました。
青木
下り出しが、標高5000メートルくらい。
──
富士山より1000メートル以上も上から、
川を下ってくるって‥‥(笑)。
青木
日本から大量の資材を持って、
まず、フェリーで中国の天津に行きまして、
陸路で北京、鉄道で四川省の成都へ。

そこからジープやトラックに乗り換えて、
どんどん奥地に入って行って、
車が進めなくなったら、
そこからは
馬と毛むくじゃらのヤクに荷を積み替え、
キャラバン隊を組んで、
川を、どんどんさかのぼって行きました。
──
それ‥‥たどり着くまでに、どれくらい?
青木
1ヶ月ちょっとですかね。
──
スタート地点に立つまで、ひと月。
青木
そこからボートで、
1ヶ月半くらいかけて下っていきました。

学生時代がそんな感じだったので、
大学を出ても、はたらく気になれなくて。
──
メコンの川下りのあとに、
突然、就職活動をしようと思っても‥‥
そりゃ、そうでしょう(笑)。
青木
当時はいわゆる就職氷河期という時代で
採用の数も少なくて、
しばらくフラフラとしていたんですけど、
当時の彼女、今のカミさんですが、
「あんた、いい加減はたらきなさいよ」
と‥‥。
──
喝が入り。
青木
はい(笑)。受かった会社に入りました。

毎日、出勤すると机に座ったまま一日中、
電話をかける仕事でした。
自分なりにがんばったんですけど、
どうも成績が伸びず、
1年だけお世話になって、辞めました。
──
チベットの奥のほうから
メコン川を下ってくるような人ですから、
もう少し身体を使った仕事のほうが
向いてそうな‥‥気がします。
青木
で、そのときにはじめて本気で
「俺、仕事、何やろうかな?」と考えたら、
学生のとき、
遠征費を稼ぐためにやった地下鉄の測量や、
造園のバイトを思い出したんです。

いや、あの、正確には、
測量や造園のときにはいた「地下足袋」を。
──
地下足袋‥‥の何を?
青木
感触です。はき心地というか、
地下足袋越しに地面を踏みしめたときの、
あの感覚のことを。

それが、すごく、気持ち良かったんです。
で、どうせ仕事をするなら、
地下足袋をはくような仕事がしたいなと。
──
大学生のときに、林学科だったことも、
あわせて思い出されて?(笑)
青木
そう(笑)、林業は高齢化が進んでいて、
若い人がいないはずだから、
よろこんで受け入れてもらえるだろうと。

でも、いざ探したら、求人がないんです。
──
若者がいないけど、求人もない。
青木
そう、地方には、まだあったんですが、
関東近辺まで広げても、なかなかない。

そんなときに、たまたま、
東京の森林組合の緊急雇用対策事業で、
半年間の仕事ができたんです。
──
ええ。
青木
そこに、応募しました。

奥多摩と檜原村に希望を出したんですが、
檜原村のほうに合格しました。
当時は檜原村のことを知らなかったので、
はじめてここに来たときは、
「おお、東京にも村があったんだ!」と。
──
檜原村、どんな印象でしたか、最初?
青木
5月だったんですが、雪が残ってました。
「素敵なところだなあ」と、思いました。

雨で削れた場所をならしたり、
林道で土を替えたり、草を刈ったり‥‥、
そういう仕事だったんですが、
ずっとここではたらきたいと思いました。
──
水が合ったんですかね。
青木
でも、事業は半年間で終わっちゃうので、
どんな方法でもいいから潜り込もう、
募集はなくても、
「こいつ使えるな!」と思ってもらえれば、
誰かが雇ってくれるんじゃないかと、
いろんなアピールをはじめて。
──
はい。どのようなアピールを?
青木
とくに、そんなことしなくてもいいのに、
重い石を運んでみたり、
宿舎のまわりを無駄にランニングしたり‥‥。
──
体力ありあまってますアピール、ですね。
青木
ええ、土日のお休みも、
テレビを見ながら酒を飲んでる先輩方に
「お前も飲め」と言われたら、
自分も嫌いじゃないので、
ありがたく「はい、いただきます!」と。
──
「飲みニケーション」も、欠かさず。
青木
そのようにして関係性を築きながら、
時間だけはあったので、
林業関係の本をたくさん読みました。
──
木を伐ったりとか、できたんですか?
青木
いえ、できませんでした。
林道の草刈りや地ならしの仕事ばかりで。

でも半年後、採用はされませんでしたが、
なんとか、もう半年、
「延長」してもらえることになりました。
──
猛アピールの甲斐あって。
青木
次の半年は、宿舎のリーダー役となって、
測量の仕事があるときには、
呼んでもらって手伝わせてもらいました。

山の中で藪をかきわけたり、
クレーン付きトラックの操縦を習ったり。
──
だんだん、林業らしい感じに。
青木
そう、そうこうするうちに、
森林組合の作業員のかたが怪我をされて、
作業班に入ることを許されたんです。
──
おお。
青木
すると、配属された初日から、
チェーンソーを持たされて間伐の仕事を。

「おい、木ィ伐るぞ~」みたいな。
──
急に(笑)。
青木
そのとき25歳くらいだったんですけど、
自分からすれば、親の世代どころか、
おじいちゃんの世代みたいな
ベテランの人たちに
手取り足取り、教えていただいて、
少しずつ、
認めてもらえるようになりました。
──
ちなみに、林業の人ってムキムキだし、
「ものすごい力仕事」みたいなイメージが
あるんですけど、
年配の方でもご活躍されてるんですね。
青木
力はそんなに使わないんです。
──
え、そうなんですか。
青木
木を伐るのも「チェーンソー」ですし、
ベテランになればなるほど、
力の入れ具合のコツがわかってるんで。

たしかに、
チェーンソーって5、6キロあるんで、
ただ持ってたら重いですよ。
──
ええ。
青木
でも、刃が木の幹に食い込みはじめたら、
慣れた人だと
片手でも取り回しができたりしますから。

要所要所で力は必要ですけど、
コツさえわかってれば、
年齢は、あんまり関係ないと思いますね。
──
そうなんですか。
青木
まだまだバリバリの70代とかいて、
いまだにかなわないなーって、思います。

<続きます>

2016-10-19-WED

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